Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

映画 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

タランティーノの最新作だ。舞台は1969年のハリウッド。知るはずはないのに、どこか懐かしい風景。自分の中の過去の断片的な記憶が編集し直されて、この時代の目撃者になったような気になる。差別的な言い方も出てくるが、それは、この時代に実際にあったもの。タバコに酒に、ミニスカートに車。ブラピの運転する姿はかっこいい。殴り合いも凄い。ワンス・アポン・ア・タイムだ。歴史から学ぼうとするとき、われわれのすべきことは、小さな事実を積み上げて表面的で薄っぺらなストーリーを作ることではなく、こうした個人の視点から見た、その時代のリアルな、濃密な断片から生まれる、実在したはずの人間の息吹を味わうことなのではないだろうか。

主人公のリック・ダルトンは、かつて西部劇スターとして一世を風靡した俳優。今はテレビドラマの敵役専門役者になってしまい、イタリアのマカロニウエスタンで何本か主演を務めるものの、最盛期を過ぎた自分を嘆いている。このあたりは、トイストーリー4と似た悲哀を感じた。

リック専門のスタントダブル(というのだね)のクリフ・ブースは、リックと盟友で仲良しの、運命共同体だ。スタントマンの仕事がないときは、リックの運転車や雑用係を引き受けている。腕っ節が強く、まっすぐな性格で、感情をごまかすことができない。

高級住宅地エリアに住むリックの隣人は、シャロン・テート。そう、実在の人物がこの映画には大勢出てくる。ロマン・ポランスキーも、ブルース・リースティーブ・マックイーンも。60年代を代表する現象ともいえるヒッピーたちも登場する。彼らの自分勝手な論理は、今のネット民に近いなあと思った。そして映画は8月9日を迎えることになる。

タランティーノの映画につきものの、格闘、暴力シーンは観ていて、痛みを感じる。今回もしっかりと痛がらせてくれたし、本当にドキドキした。そしてアメリカ人は西部劇が好きだし、それはそのままハードボイルドにつながったのだと思った。

http://www.onceinhollywood.jp/

読みたいことを、書けばいい。

タイトルがずっと気になっていて、でも、平積みになっていたから、案外お手軽本なのかなあと遠巻きにしていたけれど、エイヤと買ってみたらなかなか良かった。著者は元電通のコピーライターである。というだけで、「ああ、そういう人ね」とくくられかねないのだけれど、この人の文章は面白い。そしてキラリと光る気になる真実がちりばめられている。タイトルの通り、金儲けのためとかではなくて、賢さをひけらかすためでもなくて、お題をいただいたら、自分が納得するまで書き続ける。しっかりと調査して、ぐいぐい書き進める。このあたりは、コピーライターの技術だと思う。検索、調査、裏取りに関して、コピーライターは達人である。同業者だからよくわかる。そして著者の場合は、過剰に書き進めるというか、掘り下げるように書き抜くのである。これはノウハウ本とかではなくて、生き様の開陳である。

 

読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術

読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術

 

 

なかなか暮れない夏の夕暮れ

主人公は、ほんの少しでも時間があると本を読む。待ち合わせのバーのカウンターで。スカイプを立ち上げ、相手が画面に出てくるまでのわずかな時間に。読んでいるのは翻訳ミステリーだ。真冬の北欧で殺人事件が起こった直後、物語は中断される。改行されると主人公の部屋のチャイムが鳴り、時間が動き出す。そのようにして主人公が本を手に取ったとき、作中の小説が読めるのだが、断片的にしかわからない。それでも、複数の本を並行して読んでいるときのような不思議な感覚になる。本を読む主人公を追体験するメタ読書体験だ。かつての筒井康隆の実験的な小説のようでもある。

わたしは以前、小説を読んだあとや映画を観たあと、その世界観にはまってしまい、現実が違って見えた経験が何度かあった。大学の教室に向かう廊下を歩いていると、その廊下の反対側が映画で見た世界へそのまま続いている、そう思うことがあった。学生で一人暮らしの頃だったから、起きている時間の大半、本を読んでいたから、そんなことが起きたのだと思う。この本の主人公は、資産家のご子息で、仕事らしい仕事をせずに独身暮らしをしているから、生活にリアリティがない。だから、そんな生活と物語の世界が地続きになっているのだろう。とにかく時間さえあれば本を読み続ける。高等遊民という言葉があったが、そんな人なのだ。

主人公とその彼を取り巻く物語があり、彼が読んでいる本の世界が並行して進む。それと同じ本を読んでいる、主人公の知り合いの女の人がいて、彼女が本を読むときも、作中小説の話が読める。かなり前半部分を読んでいるので、われわれ読者は、そのことで小さな謎が解決する。その小説もいつの間にか終わり、作中で主人公は二冊目を、今度はアメリカが舞台の小説を読み始める。読者には、もう、この小説全体の構造がわかってしまっているので、最初の作中小説ほどは身を入れて読まない。すると、相対的に主人公を取り巻く世界の話が少し前に出てくる。主人公は、現実よりも小説の方に惹かれていることがわかってくる。やはり高等遊民なのだ。自分からは積極的に動くことはほとんどないから、小説の物語を先に進める力に惹かれているのだろう。

 

なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)

なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)

 

 

音楽アルバム うたいろ

いきものがかりのボーカル、吉岡聖恵のソロアルバム「うたいろ」を聴く。さまざまな歌手の歌をカバーしていて、このボーカルならではの、潔い、まっすぐな歌い方が心地よい。中島みゆきの「糸」という歌もカバーしている。♪縦の糸は〜、横の糸は〜♪ というあの歌だ。みんな大好きらしくて、プロの歌手だけではなく、大勢のYouTuberがカバーしている。中島みゆき本人の歌は、淡々と歌うことで、歌詞に込めた想いがじわじわと届く。切なさも、不安さも、もしかしたらまちがっているかもしれないけれど、私はこう思うんだ、という気持ちも届く。吉岡さんは、この歌のファンとして、この歌に感動した人としての想いを歌う。最初のサビまでは、できるだけ淡々と歌おうとしているが、サビ後は、うれしさが、この歌を聴いて感動しました、という喜びがあふれている。それは悪いことではないし、それも彼女の魅力だと思う。

で、カバーアルバムってなんだろう、と思ったのだ。本人とほぼ同じなら、それは物まねだ。プロはやらない。プロの歌手が他の歌手の歌をカバーするのは、新たな解釈を提示することだと思う。女性歌手の歌を男性歌手が歌って、違う風景が見えることがある。徳永英明とか。また、アレンジを変えて、popにしたり、ブルージーにしたり、元の歌を素材として新たに作りなおすようなものもある。井上陽水コーヒールンバとか。なにか新しいものを聴かせて欲しい、それがカバーアルバムに期待することだ。

吉岡さんの「糸」は、歌手になるときの原点のような、音楽が、歌うことが好きな女性の感情が歌声に表れていて、彼女らしいアルバムになっているように感じた。

 

うたいろ(特典なし)

うたいろ(特典なし)

 

 

映画 あん

以前、テレビで放映された直後にHDDに録って、見始めたのだが、テレビが壊れて買い換えたために続きを観れていなかった。最近、再放送があり、ようやく観ることができた。淡々と物語が進んでいく。永瀬はいい。悲しみとやりきれなさと反抗心と大きな優しさを体現した演技をしている。樹木希林は凄い。台詞を言う前にすでに、小さな仕種にも、そのキャラクターが反映されている。浅田美代子は、大嫌いだといいたくなるくらい、典型的な、近所にいそうな面倒な叔母さんそのものになっていた。

どら焼きを売る小さな店に、ある日、一人の老女が雇って欲しいと言ってくる。それほど繁盛してもいないし、狭い店で、一人で間に合っているので、雇えないと店長は告げる。しかし、その女性が置いていったあんこの美味さに驚き、あんこ作りを手伝ってもらう、いや教えてもらうことにする。それからは、あんこの美味しさが評判になり、開店を待つ行列ができるほどになる。しばらくして、その店のオーナー夫人がやって来て、アン作りの名人、徳江さんは元らい病患者だから、店を辞めさせろと言いに来る。店長は辞めさせなかったが、客足が遠のいたことで、徳江は店を去る。一生を監禁されて過ごしてきた人に対して、なんとも卑劣で理不尽な対応だろうと思うけれど、病気のことを噂程度にしか知らず、どんな扱われ方をしてきたかに思いをよせることもなく、よくわからないもの、自分たちとは違う人間は遠ざけておけばいいというやり口は、今の世の中そのものだ。徳江は、どんなものにも、例えば小豆にも言葉があって、それを聞くことは、誰でもできることであり、だからこそ、誰もが生きている価値があるという。散った桜の枝が風に揺れる様子を、手を振っているのね、と言う。生きることは、自分にとっての意味を探すことなのだと思う。誰かの決めた価値に従っているだけでは、生きることの本当の意味はわからないのかもしれない。

http://an-movie.com/

窓の外を見てください

仕事や読書会に関連する読書ばかりで、自分のために買った本がなかなか読めない状態が続いている。そうした間隙を突いて、ようやく、この本が読めた。相変わらずの片岡義男の小説だ、という他はないのだが、大学生の頃から読み続けてきているので、自分の中の時間が、たっぷりと自由な時間のあったあの頃とシンクロして、ゆったりと流れるのがわかる。

この作家の登場人物たちを「現実感がない」と言って、小馬鹿にするのが、世間一般のスタイルだった。最近はネットの一部で再評価されているようだ。なんだか、自分が卒業した二流大学が、近頃はかなり一流大学風に扱われていると聞いたときのような、妙な感じだ。もともと、なかなかのものだったんだよ、ということにしておこう。

作家が主人公の連作は、その作家が体験する日常を、小説にしていくという、不思議な構造の小説になっている。片岡さんの日常がすでに小説のようだから、成立するのだろう。もしも私が、このスタイルを真似て小説を書いてみるなら、まず現実部分に相当するパートのフィクションを作り上げなければならないだろう。だから、そんな面倒なことはしないし、できそうにない。こうした世界を楽しみたいのなら、この作家の新作を読めばいいのだ。おかげさまで、いまも新作を出し続けてくれているのだから。

 

窓の外を見てください

窓の外を見てください

 

 

アリババの経営哲学

ジャック・マーという人は面白い。インターネットのことがよくわからず、プログラミングもまったくわからないときに、インターネットの会社を起業すると決めて、実践し、アリババという会社を世界有数のB2B取引の会社にし、そして今度は、その会社を辞めて、教育の改革をするのだという。アマゾンやグーグル、facebookなどの創業者とも比べられるが、この人は桁外れだ。大学受験に二度失敗しているし、会社の面接に行っても、彼だけが断られたこともある。会社が大きくなるまでは、中国政府からも阻害を受けていた時期もあるが、とにかく信念をどこまでも貫くのだ。座右の銘が「Never Give Up!」ということであり、いくつも会社をつぶし、そこから学んで、次のステップを決め、今の地位を築いた。貧乏な青年が世界有数の大富豪になるまでのストーリーは、チャイニーズドリームであり、その速度がものすごい。創業からわずか十数年で世界を席巻する会社に育て、今後は他のスタッフに任せてしまい、自分は新たなチャレンジをはじめるというのだ。人の数倍もの人生を送ろうとしている。

彼の考え方はユニークで、「顧客第一、従業員第二、株主第三」と言い切っている。チームワークの重要性を説き、個性を活かすチームを作り上げることで、凡人が非凡を成す、と言い、それを具現化してきた。そして、社員のために合同結婚式を開いて、その費用を会社で負担したり、会社の周年行事の際には、自らマイケル・ジャクソンのコスプレで登場するなど、おもしろいオジさんだ。そもそも、アリババは大企業支援ではなく、中国の中小企業をサポートする会社として創業した。儲けよりもまず、社会的な意義を考える人なのだ。こんな会社が利潤を上げて、社員もみな幸せそうだというのは、本当にすごいことだ。しかも中国で。安い賃金で、長時間労働パワハラで無理矢理に働かせたりしなくても、仕事はできるし、世の中のためになる会社が実現できるというのは、今時の、いちばんの福音かもしれない。