Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

文学キョーダイ!!

 「同志少女よ、敵を撃て」の作家さんが、高橋源一郎さんのラジオにゲストで出ていて、もう一人のゲストがロシア文学の研究者だったのだが、なんと、その方はゲスト作家の姉上だった! とホストの高橋さんもびっくりして、私もほーと思っていた。で、その二人が対談をしている本がこの本だ。

作家になった弟さんは、書く事が好きで、一生書き続けられるということで、結果的に作家になった。お姉さんは、一生本が読み続けられる仕事をしようと思っていて、ロシア文学に出会い、日本の大学に行く前にロシアの大学に行ったという方。どちらも本好きで、その発端のところは、とても共感する。

学者だった父の姿を見て育った二人は、本を読んだり、何かを研究したりする習性を幼い頃から身につけたようだ。新潟に住む祖父は戦争が大嫌いで、トルストイを愛しながら農業をしているような方。夏休みに遊びに来る孫の二人には何でも買って与えるのだが、弟くんが戦車のプラモデルが欲しいといった時は、それは許さない。本当に戦争が嫌いだからだ。それでも、弟くんは、とにかく兵器などに関心を持ち続け、今も技術の集大成として好きなのだ。だが、戦争は大嫌い。それは姉も同じだ。家族の教育がしっかりと身についている。

弟は戦争の物語を通じて反戦を訴え、姉は平和を語ることで反戦を訴えたいと思っているという。弟は雄弁に、姉は相手の言葉を聞きながら、静かに強い意志を持って。よく似ていながら、自分の好きなものを見つけて、それに取り組んでいる。キョウダイとこんなに政治や社会や歴史の話をしたことがあったろうか。普通はないだろうな。でもこの二人にとってはとても普通のことなのだろう。裏も表もなく生きているから、身内同士でも熱い議論ができるのだろう。とても刺激を受けた一冊だ。

 

 

じゃ、やってみれば

今年のアカデミー賞で、山崎貴監督が「ゴジラ-1.0」で視覚効果賞を受賞した。名前をよばれ、スタッフたちとステージに上がったとき、一人の人物の写真を手にしていた。それはROBOTという会社を起こし、さまざまな日本映画を作ってきたプロデューサーだ。私は直接面識はないのだが、近しい友人を通じて、その人柄や活躍を聞いていた。その人の著作がこの本だ。

たいていの成功者の話は、自慢話に聞こえてしまうものだ。以前にも、アカデミー賞をご自身のプロデュース作品で受賞している人ともなれば、当然そうなりそうなものだ。が、阿部さんの語り口は、それを感じさせない。人柄が文章にもにじみ出ているのだろう。CMや映画作りはもちろんのこと、人を育てるプロフェッショナルだったんだなあと感じた。

この本の中で好きなエピソードは、自社の社員をアメリカに映画を勉強するために留学させようとしたところ、UCLAなどのメジャーな大学には落ちてしまい、自分で探してきた、それほど有名ではない大学に受かったそうだ。会社としても、本人としても、本場の映画を学ぶことに加え、キャリアに箔を付けるためにも名の知れた大学へ行くことは意味があるが、微妙な大学に行くのはどうなのだろうと思って、よくよく本人に聞いてみると、行きたい気持ち半分、行かなくてもいいかなという気持ちが半分なのだという。そこで、コインを投げて決めさせることにした。結果、日本に残ることになったが、その方はその後、映画監督として成功を収められた。コインを投げて、そんな大事なことを決めるな、という考えもあるが、いやいや、人生の岐路に立ったときこそ、コインに人生をかけるという覚悟が求められているように思う。コインのどちらの面が出たって、それで終わるわけではない。そこから始まって、成功とか失敗はずっと後で、結果が出るのだと思う。

阿部さんとは一度話してみたかったなと思う。

 

 

森繁自伝

森繁久彌という人は、私にとってはずっと大御所の役者さんであり、知床旅情の人だった。それから、向田邦子が台本を書いていた社長シリーズを知ることになったが、それ以上のことはなにも知らなかった。この本は、日本の演劇人となる前に、家族とともに満州に渡り、NHK局員として現地のラジオ放送をしていたのだが、終戦を迎え、現地でそして日本に引き揚げてからのことが書かれている。文章が上手なのには驚く。教養のある人なのだ。

森繁さんは、終戦後もずっと満州に残った。そしてロシア兵や中国兵がやってきては蹂躙される街で、ともに残っていた日本人たちの面倒を見続けた。敗戦国にはつきものなのかもしれないが、占領軍が誰彼構わず夫人たちを凌辱するのを避けるため、未亡人となった有志の女性たちが自主的に人身御供になってくれた。その夫人たちを手厚く面倒をみたのが森繁さんだった。

日本に引き揚げてからは、生活のために金を稼ぐ算段をする必要がある。あるときは紀伊半島の漁港に行き、網元と話を付けて卸売りをすることにしたのだが、その翌日紀伊半島地震に襲われ、壊滅的な打撃を受ける。当然ながら、魚の卸売りの話は立ち消えとなる。

それから、昔の伝手を通じて演劇の世界に戻ってくることになる。たくさんの映画に出演しながら、NHKのラジオ番組を始める。

読んでいるだけで、戦中・戦後の巷の薫りを感じる。読書の楽しみを教えてくれる本だ。今ではもう本屋では見かけず、図書館にしかない。

 

映画 PERFECT DAYS

2023年のカンヌ映画祭で受賞したということだけでなく、ヴィム・ベンダースと役所広司という組み合わせが気になっていた。すでに劇場では一日一回の上映で、小さなスクリーンでしか上映していなかったが楽しめた。主人公の平山は東京都の公衆トイレを清掃する仕事をしている。五十代くらいか。朝早く起きると、二部屋しかないアパートの一室を占拠する鉢植えの植物たちに水をやる。顔を洗って歯を磨き、朝食代わりの缶コーヒーを自動販売機で買い、仕事道具を積んだマイカーの運転席でそのコーヒーを飲む。首都高に乗って仕事に出掛け、都内各地のトイレを手際よく清掃する。昼食はいつもの公園のベンチでサンドイッチを食べる。午後も仕事をして、夕方遅くならないうちに家路につく。開店するのを待って銭湯に入り、それから自転車に乗って馴染みの、浅草駅地下の飲み屋で酎ハイ2杯とつまみで夕食を済ませる。夜は早めに布団に入り、眠くなるまで読書。週末は古本屋で文庫本を買い、スナックで酒を飲む。そんな毎日が続いていく。

そんな平凡な生活に波風が立つこともある。若い仕事仲間。妹の娘。スナックのママの元旦那。隠遁者のような生活を送る平山にとって、人間関係こそが厄介の種なのだろう。それでも淡々と、日常を大切に生きていこうとしている。

平山が家と仕事現場を車で移動するとき、懐かしい80年代頃の音楽がかかる。彼はカセットテープを大量に持っていて、それを車内で聴きながら移動する。このシーンがとても良い。旅には出ないが、これはロードムービーなのだ。自分の城、あるいは分身とも言える軽ワゴン車には仕事道具がぎっしりと詰まれている。その車で仕事場に往復できるだけでも、電車通勤のサラリーマンより遙かに豊かな時間を持っているように感じた。銭湯や飲み屋へは自転車で行く。この自転車もちょっとおしゃれだ。決して金銭的なゆとりのないはずの生活なのだが、小さなこだわりが端々に感じられて、素敵な人生なのだろうと思える。生きるということ、日々の生活を続けていくことの中で大事なものとは、たとえささやかでも、自分が大切にしているこだわりだったり一人きりの時間なのかも知れない。映画を観た直後よりも、時間が経ってからじわじわとボディプローのように効いてくる映画だった。

 

PERFECT DAYS 公式サイト

それで君の声はどこにあるんだ?

黒人神学という言葉が、つまりそうした学問があることをつい最近まで知らなかった。だが、その言葉を聞いたときに、ずっと考えていた疑問を解くきっかけになるかもしれないと思い、この本を手にした。

アメリカでは今でも、残念ながら黒人たちは命の危機にさらされ続けている。黒人の死亡率は白人の倍だという。もちろん病気のせいではない。差別によって不当に殺される場合が今もあるからだ。黒人でキリスト教信者である人たちは大勢いる。一方で、キリストは白人の宗教だという人もいる。奴隷として扱われていた日々から多くの年月が過ぎても、まだ怯えながら暮らす黒人たちは少なくない。神に祈っても、救われないことが多いのに、キリスト教信者であり続ける黒人たち。彼らにとってキリスト教徒はどういう意味を持つのだろうかと疑問だった。

この本を読み終えても、私の疑問は解消することはなかったが、神に祈り続けながら生きていくことこそが、宗教なのだということはわかった。キリスト自身も神に見放されたと思いながら磔になった。だが、キリストは復活しても、警官に殺された黒人たちが生き返ることはない。不条理を抱えて生きている。合理性はない。それでも「キリスト者となることは、黒人となることとどこか似ている」とジェームズ・ボールドウィンは言ったという。

アメリカにはトランプを支持する黒人もいれば、貧民の白人もいる。合理的であることは、生きていくことの第一ルールではないのだ。だからこそ、宗教というものに人間は何かの光を見いだそうとするのかもしれない。

コロナ禍のアメリカで、チャイナウイルスと呼んだ大統領を信じて、多くのアジア人が黒人たちと同じような目に遭った。黒人であることの本当の苦しみを日本人に理解できるのだろうか?それは、この本の著者がずっと抱えている疑問だ。真の理解にはほど遠いかもしれないが、想像力を発揮することが人間として生きていくことの基本なのだと思う。そして自分なりの声を見つけることを求められているのだと思う。

 

 

坊やはこうして作家になる

言葉の問題を考えていて、過去の自分のノートを見直していたら、次のような引用文をメモしているのを見つけた。

「日本人の傲慢さは言葉で関係を作ろうとしないことである。言葉をつくして双方のために論理を重ねようとしないことである」

「日本人は考えなくてもいい状態が大好きである」

「日本語は支配原理のための言葉になりやすい。慎重に理知的に思考をめぐらせることの苦痛を目の前にすると、日本人は思考をあっさりと放棄するからだ」

「人は自分が獲得している言葉の質量の人生しか生きることができない」

これをメモした日付は2016年。本棚で表題の本を見つけ、奥付を見たら2000年2月。初版で買ったはずだから、20年以上も前にこの言葉に出会っていたのだ。特に最後に引用した言葉に目が釘付けになった。

生成AIなど、言葉が鍵となる時代が来たというのに、抽象的に考えるための言葉をどけだけ自分のものにできているのだろうか。もう一度、この本を読み始めようと思う。

 

じゃむパンの日

赤染晶子さんのエッセイ。なんて軽やかな、ユーモラスな文章なのだろう。こういう人に私はなりたい。リズムが良くて、ユーモアの分量がちょうど良くて。京都の人だから? 嫌みの代わりに諧謔で語るというような。こんなエッセイを書く女性が他にもいたよなあと思ったら、巻末で交換日記形式で文章を寄せられていました、そう翻訳家の岸本佐知子さんでした。こりゃ、気が合うわ。高橋源一郎さんのラジオでこの芥川賞作家のことを知ったのだけれど、なんとすでに鬼籍に入られていた。それでも、作家が残してくれた作品はずっと残り続ける。素敵なことだと思う。楽しい本をありがとうございます。