Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

音楽アルバム うたいろ

いきものがかりのボーカル、吉岡聖恵のソロアルバム「うたいろ」を聴く。さまざまな歌手の歌をカバーしていて、このボーカルならではの、潔い、まっすぐな歌い方が心地よい。中島みゆきの「糸」という歌もカバーしている。♪縦の糸は〜、横の糸は〜♪ というあの歌だ。みんな大好きらしくて、プロの歌手だけではなく、大勢のYouTuberがカバーしている。中島みゆき本人の歌は、淡々と歌うことで、歌詞に込めた想いがじわじわと届く。切なさも、不安さも、もしかしたらまちがっているかもしれないけれど、私はこう思うんだ、という気持ちも届く。吉岡さんは、この歌のファンとして、この歌に感動した人としての想いを歌う。最初のサビまでは、できるだけ淡々と歌おうとしているが、サビ後は、うれしさが、この歌を聴いて感動しました、という喜びがあふれている。それは悪いことではないし、それも彼女の魅力だと思う。

で、カバーアルバムってなんだろう、と思ったのだ。本人とほぼ同じなら、それは物まねだ。プロはやらない。プロの歌手が他の歌手の歌をカバーするのは、新たな解釈を提示することだと思う。女性歌手の歌を男性歌手が歌って、違う風景が見えることがある。徳永英明とか。また、アレンジを変えて、popにしたり、ブルージーにしたり、元の歌を素材として新たに作りなおすようなものもある。井上陽水コーヒールンバとか。なにか新しいものを聴かせて欲しい、それがカバーアルバムに期待することだ。

吉岡さんの「糸」は、歌手になるときの原点のような、音楽が、歌うことが好きな女性の感情が歌声に表れていて、彼女らしいアルバムになっているように感じた。

 

うたいろ(特典なし)

うたいろ(特典なし)

 

 

映画 あん

以前、テレビで放映された直後にHDDに録って、見始めたのだが、テレビが壊れて買い換えたために続きを観れていなかった。最近、再放送があり、ようやく観ることができた。淡々と物語が進んでいく。永瀬はいい。悲しみとやりきれなさと反抗心と大きな優しさを体現した演技をしている。樹木希林は凄い。台詞を言う前にすでに、小さな仕種にも、そのキャラクターが反映されている。浅田美代子は、大嫌いだといいたくなるくらい、典型的な、近所にいそうな面倒な叔母さんそのものになっていた。

どら焼きを売る小さな店に、ある日、一人の老女が雇って欲しいと言ってくる。それほど繁盛してもいないし、狭い店で、一人で間に合っているので、雇えないと店長は告げる。しかし、その女性が置いていったあんこの美味さに驚き、あんこ作りを手伝ってもらう、いや教えてもらうことにする。それからは、あんこの美味しさが評判になり、開店を待つ行列ができるほどになる。しばらくして、その店のオーナー夫人がやって来て、アン作りの名人、徳江さんは元らい病患者だから、店を辞めさせろと言いに来る。店長は辞めさせなかったが、客足が遠のいたことで、徳江は店を去る。一生を監禁されて過ごしてきた人に対して、なんとも卑劣で理不尽な対応だろうと思うけれど、病気のことを噂程度にしか知らず、どんな扱われ方をしてきたかに思いをよせることもなく、よくわからないもの、自分たちとは違う人間は遠ざけておけばいいというやり口は、今の世の中そのものだ。徳江は、どんなものにも、例えば小豆にも言葉があって、それを聞くことは、誰でもできることであり、だからこそ、誰もが生きている価値があるという。散った桜の枝が風に揺れる様子を、手を振っているのね、と言う。生きることは、自分にとっての意味を探すことなのだと思う。誰かの決めた価値に従っているだけでは、生きることの本当の意味はわからないのかもしれない。

http://an-movie.com/

窓の外を見てください

仕事や読書会に関連する読書ばかりで、自分のために買った本がなかなか読めない状態が続いている。そうした間隙を突いて、ようやく、この本が読めた。相変わらずの片岡義男の小説だ、という他はないのだが、大学生の頃から読み続けてきているので、自分の中の時間が、たっぷりと自由な時間のあったあの頃とシンクロして、ゆったりと流れるのがわかる。

この作家の登場人物たちを「現実感がない」と言って、小馬鹿にするのが、世間一般のスタイルだった。最近はネットの一部で再評価されているようだ。なんだか、自分が卒業した二流大学が、近頃はかなり一流大学風に扱われていると聞いたときのような、妙な感じだ。もともと、なかなかのものだったんだよ、ということにしておこう。

作家が主人公の連作は、その作家が体験する日常を、小説にしていくという、不思議な構造の小説になっている。片岡さんの日常がすでに小説のようだから、成立するのだろう。もしも私が、このスタイルを真似て小説を書いてみるなら、まず現実部分に相当するパートのフィクションを作り上げなければならないだろう。だから、そんな面倒なことはしないし、できそうにない。こうした世界を楽しみたいのなら、この作家の新作を読めばいいのだ。おかげさまで、いまも新作を出し続けてくれているのだから。

 

窓の外を見てください

窓の外を見てください

 

 

アリババの経営哲学

ジャック・マーという人は面白い。インターネットのことがよくわからず、プログラミングもまったくわからないときに、インターネットの会社を起業すると決めて、実践し、アリババという会社を世界有数のB2B取引の会社にし、そして今度は、その会社を辞めて、教育の改革をするのだという。アマゾンやグーグル、facebookなどの創業者とも比べられるが、この人は桁外れだ。大学受験に二度失敗しているし、会社の面接に行っても、彼だけが断られたこともある。会社が大きくなるまでは、中国政府からも阻害を受けていた時期もあるが、とにかく信念をどこまでも貫くのだ。座右の銘が「Never Give Up!」ということであり、いくつも会社をつぶし、そこから学んで、次のステップを決め、今の地位を築いた。貧乏な青年が世界有数の大富豪になるまでのストーリーは、チャイニーズドリームであり、その速度がものすごい。創業からわずか十数年で世界を席巻する会社に育て、今後は他のスタッフに任せてしまい、自分は新たなチャレンジをはじめるというのだ。人の数倍もの人生を送ろうとしている。

彼の考え方はユニークで、「顧客第一、従業員第二、株主第三」と言い切っている。チームワークの重要性を説き、個性を活かすチームを作り上げることで、凡人が非凡を成す、と言い、それを具現化してきた。そして、社員のために合同結婚式を開いて、その費用を会社で負担したり、会社の周年行事の際には、自らマイケル・ジャクソンのコスプレで登場するなど、おもしろいオジさんだ。そもそも、アリババは大企業支援ではなく、中国の中小企業をサポートする会社として創業した。儲けよりもまず、社会的な意義を考える人なのだ。こんな会社が利潤を上げて、社員もみな幸せそうだというのは、本当にすごいことだ。しかも中国で。安い賃金で、長時間労働パワハラで無理矢理に働かせたりしなくても、仕事はできるし、世の中のためになる会社が実現できるというのは、今時の、いちばんの福音かもしれない。

 

 

岩田さん

任天堂の社長で、私にとっては、ほぼ日刊イトイ新聞を通じていつも話を聞いていた、岩田聡さん。2015年に早すぎる生涯を閉じた。その岩田さんの言葉を、糸井さんや宮本さんとの対談などから集めたのが、この本だ。ほぼ日に掲載されたものも多いから、以前読んでいるはずなのに、また読んでも、そうだよね、と頷いてしまう。

「お金はたくさん使えたほうがいい。人がたくさんいたほうがいい。かける時間は長いほうがいいものができる。そんなことはわかりきってますけど、そのわかりきったことをしているうちは、ほかの人と同じ方法で進んでいくだけですから、競争力がないんですよ。でも、これとこれを組み合わせるとこういうことが起こるぞ、っていうのをみつけたときは、それがふつうの人が気づいていない切り口であればあるほど、価値が出てくる。問題となっている事象の根源をたどっていくと、いくつもの別の症状に見える問題がじつは根っこでつながっていることがあったり、ひとつを変えると、一見つながりが見えなかった別のところにも影響があって、いろんな問題が同時に解消したりする」

「だから、宮本さんは、自分がどんなに実績のあるゲームデザイナーであろうと、『お客さんがわからなかったものは自分が間違っている』というところから入るんです」

「お店に来る人がいなければ、どんなにすばらしい商品も売れないように、電源を入れてもらわないと、どんなすばらしいゲームだって遊んでもらえないんですよ」と言って、毎日ゲーム機のスイッチを入れてもらうにはどうすればいいかと考える。それが岩田さんだ。

もちろん、直接は、岩田さんのことを存じあげないが、対談相手の目線、言葉でのもてなし、この本の中での扱い方を通して、みんなが岩田さんを愛していたことがわかるし、その感じが本を読みながら伝わってきて、なんだか、お会いしたことがあるんじゃないかと勘違いしてしまうほど、岩田さんに対する愛があふれている本だ。発想、経営的視点、チームワークとか、いろんなヒントをもらえるほんだけど、何よりも、こんな素敵な人が日本にいて、スーパーマリオの開発者だったり、あの任天堂の社長さんだったりしていたなんて、凄いことだし、今いないなんてちょっと切ない。時々、読み返して元気をもらう本の棚に置くことになると思う。

 

岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。

岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。

 

 

折りたたみ北京

タイトルがとても気になる。どんな話なのだろうかと。翻訳の師匠が面白かった本だと挙げていたので読んでみた。副題は現代中国SFアンソロジーだ。編者はケン・リュウ。「紙の動物園」の著者。不見識なことに、中国SFと言われてもピンとこなかった。書店では、中国文学は世界の小説の棚に置かれているので、ほとんど手に取ることがなかったし、SFと中国の組み合わせは考えたことなかった。でも、AIの研究と実用化で米国と争う国だし、キャッシュレス化が日本より遙かに進んでいるし、監視カメラで人間の信用格付けをしている国なのだから、進んだSFがあって当然だ。しかも、今や「三体」が読書人の間でブームになっていて、その一節が、このアンソロジーにも収められている。

それは劉慈欣作の「円」で、秦の始皇帝の面前に、三人組の兵士を一つのユニットとして二進法の発生装置を作り、それを百万ユニット並べて、コンピューターの仕組みを再現する。山形天童の人間将棋のようだ。読んでいて、その迫力が眼に浮かぶ。

また、他の作家の作品も独創的だ。表題の「折りたたみ北京」は、一日を三つに区切り、三階層の国民が暮らす街を描いている。また、二十億の神様が宇宙船団で地球にやって来てホームステイする話など、本当におもしろい。SFは、「もし○○○が〜だったら」というところから、話が始まるわけで、本当に多種多様な話が展開される。

中国的な要素は、人名や妖怪、民話、自然の風景や、街、軍、政府の描写などに現れる。「1984」の世界が今一番似合うのは中国かもしれない。日本は(日本語で読める本の世界は、というべきか)小説の新大陸を見つけたようだ。

 

 

映画 トイ・ストーリー4

アニメなのに、おもちゃの人形たちが主人公なのに、彼らの物語に感情移入してしまうのはどうしてだろう。もちろん、ディズニー映画で、PIXER製作で、トム・ハンクスなどが声優をしているのだから、当然という考え方もできる。けれど、人間の物語が映画になっているからなんだと思う。

今回、ウッディは出番が少なくなってあせっていた。それでもキッズ(ご主人かな)に対する忠誠心はすばらしい。ボニーが手作りした、お気に入りのフォーキーを献身的にサポートする。自分の居場所を作りたいのかもしれない。ずるがしこいギャビー・ギャビーにまでもウッディはとことん優しくしてやるんだね、自分を犠牲にしてまでも。

でも、最後はいつもと少し違っていた。自分のために選択したし、おもちゃ代表の座を降りて、代替わりを受け入れた。

この映画を人間の俳優で、今の時代に制作したって誰も見ないのかもしれない。しかし人間はあまり変わらないから、求めている物語もそれほど変わらないだろう。語り口を変えたり、時代や設定を変えて、伝わりやすいものにしようという工夫のひとつがアニメなのだ。CG技術の進歩と、一流俳優のアフレコで、アニメは命を吹き込まれる。さらにトイ・ストーリーの主人公たちはおもちゃであるがゆえに、人間らしさをひたすら目指すCGとはゴールが違ってくる。おもちゃらしい質感なのに、感情が宿っている。そう思える。

ウッディの幸せを祈るばかりだ。

https://www.disney.co.jp/fc/toystory.html