Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

燃えつきた地図

ある日、姿を消した夫を探してほしいという妻からの依頼を受け、興信所の所員である「私」は妻に話しを聞きに出向く。何を聞いても、妻は、手がかりになるようなことはたいして話してくれない。弟にまかせてある、といいながら、その弟にはこちらから会えないというようなことを言う。しかたなく少ない手がかりで調査を始めると、行く先行く先に、その弟が先回りしている。調べてほしいといいながら、何かを隠そうとしているのか? 疑念を持ちながら調査を進めると、その弟は殺されてしまう。夫の部下だった男に話をきくと、あれこれ自分から話したあげくに、それは嘘だったといい、その部下は自殺してしまう。そして、私は手がかりを求めて、出かけた先で暴漢に襲われ・・・。

たしかだと思っていたものは、ただの思い込みだったのかもしれないと思い始めるところから、私は、自分自身が何者なのか、言い切ることができなくなる。知っているはずの場所へ行っても、そこには自分の記憶とつながるものは何もない。自分はだれかも思い出せなくなる。私は探す人なのか、探されている男なのか。

確かだと思っていたことが、ふと疑問をもった瞬間から、すべてが夢の中のような、つかみどころがないものになってしまう。自分を定義していたはずのものがぐらついてしまうと、自分は主観だけになってしまう。現実と妄想ははっきりと線引きできないのだ。かつての日本人作家の小説には、そうした視点が入っているように思う。芥川龍之介にしても、内田百閒にしても。主観だけになるということは、おそらく精神に失調を来した状態だということだ。悩めば悩むほど、泥沼の中に入っていくことになるのだ。自分とは何者なのだろうか。

 

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)

 

イタリアン・シューズ

フレドリック・ヴェリーンはかって医師だったが、本人が言うところの大惨事(カタストロフ)のせいで仕事を辞めて、子どものころ家族と暮らしていたスウェーデンの小さな島で一人暮らしをしている。犬と猫がいるだけで、その島には他に誰も住んでいない。郵便配達人が舟に乗って定期的にやって来るが、挨拶を交わすだけで一度も家に招いたことはないし、来客はまったくない。それなのに、冬のある日、家の前の凍った海の上に一人の女性が倒れていた。フレドリックは救出に向かう。それはかつての恋人で、彼が37年前に黙って彼女の元を立ち去って以来の再会だった。

かつての恋人ハリエットは「人生で一番美しい約束を果たして」と迫る。彼女は余命幾ばくもない病気に冒されていた。その約束とは、彼が幼い頃に父親と出かけた湖を彼女に見せること。本当は何が望みなのだろうかと訝りつつ、フレドリックは彼女をつれてその湖に向かう。すべてを拒絶して、世捨て人のようにこの島で12年間暮らしてきたフレドリックの人生が動き始める。そして、彼の人生の謎を解き明かすように、さまざまな女性が登場する。

ミステリー作家として知られるヘニング・マンケルの、ミステリーのような、恋愛小説のようなストーリー。タイトルのイタリアン・シューズは、ハリエットが靴屋に勤めていたことがきっかけになって、物語の最後にも関わってくる。『足に合わない靴は(いつまで待っても)合わない』『靴が足に合うとき、人は足のことを考えない』といったことばも出てくる。

過去を振り返るとき、30歳は30年分を、そのときの自分にとっての意味合いとして解釈する。60歳なら60年分を、そのときの視点から解釈する。過去に起こった出来事は変わらないのに、解釈が変わる。自分の思いが変わるし、文脈が豊かになっているからだ。老化も思考に影響を与える。自分が終わらせようと思っているようには人生は変わらない。それは、それほど悪いことではないだろう。

イタリアン・シューズ

イタリアン・シューズ

 

 

講演会 宇宙についてのあれこれ

今回は本でも映画の話でもない。知り合いの会社で、宇宙業界の人が話しに来てくれるというので、参加させてもらった。そのときのメモだ。

講師は小林さんという女性で、ベストセラーマンガ「宇宙兄弟」の監修もされた方(巻末にお名前が載っていて、マンガの中にも描かれている)。以前、JAXAで働いていたが、今はJAXAからスピンアウトした民間の会社「有人宇宙システム」に勤めている。この会社はISSに向かう宇宙飛行士の滞在支援の他に、スペースXやボーイング製ロケットの安全審査などをしているそうだ。彼女は日本人宇宙飛行士のサポートを担当している。

今はスペースシャトルのミッションがないこともあり、NASAではなくロシアの宇宙ステーションに行くことが多いそうだ。カザフスタンのバイコヌールにあり、広大な敷地の中に、発射台が50カ所あって、人工衛星などのロケットがかなりの頻度で打ち上げられているという。カザフスタンの気温は、-50℃から+50℃まで変動する厳しい気候だ。それでも、ここに発射基地を置いているのは、雨がほとんど降らないため、365日ほぼ毎日打ち上げができるからだという。あまりに頻繁にロシアに行っているために、時々アメリカに行くことになると、空港の税関で必ず個室に連れて行かれるそうだ。

ロシアのロケットは、ソユーズというV2ロケット。過去の話だと思っていたら、ロシアはずっと同じシステムのロケットを使っているのだという。1800回打ち上げられており、そのたびにバグの修正をしてきたので、いわゆる「枯れたシステム」で故障がなく盤石だそうだ。なぜこんなに長持ちしているかというと、V2ロケットを複数台連ねて飛ばす、クラスターロケットという技術を作りだしたからで、月やISSに行くには充分な推進力が得られている。一回の打ち上げは約50億円かかるらしい。

ロケット発射の際には、発射台まで、なんと鉄道で、横倒しにして運ばれるのだという。ロケットという超精密機械を横倒しにするなどということは、NASAの人間は思いもしないそうだ。枯れたシステムの信頼性がなせる業なのだろう。そして、ロケットを先導するように犬が歩いてくれるのだという。爆弾探知犬なのだそうだ。バイコヌールの基地は、あのガガーリンが打ち上げられた場所で、その頃からの施設もまだ使われてるという。近くに寄って見るとかなり老朽化が進んでいるのがわかるそうだ。そして、この基地から打ち上げられる宇宙飛行士は、今もガガーリンが行ったのと同じ儀式を行うのだという。髪を短くするのもそう。宇宙飛行士は体重制限もあり、私物は1.5キロまで持ち込めるそうだ。

宇宙飛行士のミッションは分刻みで予定が組まれている。ISSは地球を90分で一周するため一日16回、日の出を迎える。規則正しい生活をするために、GMTを基準として24時間のタイムラインで生活するのだという。基本は一日3食。忙しくて昼食が食べられないことも多いという。ロシアの宇宙飛行士は缶詰の食料が多いそうだ。持ち込みが許可された私物として、好きな食べ物(もちろん宇宙食)を持ち込む宇宙飛行士も多いそうで、日本製の宇宙食、特にカレーはおいしいと評判らしい。ISSでのミッションの際に他の宇宙飛行士になにか頼み事をするときに、この食べ物が効果的だそうで、日本食は有利な取引(!?)の対照になるらしい。

ミッションがいくら忙しいといっても、夜間と週末は休みになる。その時間を利用して写真を撮る人も多いという。しかし、ISSは高速で飛んでいる。ISSから地球を撮影するには、流し撮りの技術が求められる。それでも、上手に写真を撮る宇宙飛行士がいるそうだ。宇宙飛行士ではないが、NASA専属のカメラマン、ビル・インガルスはロケット発射のシーンなどを数多く手がけている。

宇宙飛行士が船外活動をするために、宇宙服を着てISSから宇宙空間に出ると、落ちていく感覚になる人が、かなりの割合でいるという。そしてそれは、地球での訓練時には判明せず、宇宙空間に出た瞬間に初めてわかる。落ちていく感覚になる宇宙飛行士の場合は、常に不安になりながら船外作業をすることになるので、かなり辛いそうだ。宇宙服は、小さな宇宙船なのだという。一着何億円。ヘルメットのバイザーは金でコーティングされているそうだ。

宇宙ステーションで出たゴミは、どうするのだろうか。答えは、ISSに物資を運んできた無人の補給船が帰還するときにゴミを詰め込むのだそうだ。そして、補給船は大気圏で燃えつきる。地球に帰還することはない。

それから、小林さんの失敗談を。あるとき、自分の携帯にアメリカの電話番号から電話がかかってきた。しかし、末尾になんだがおかしな数字があるということで、ヤバい電話だと思って無視したのだという。ところがそれは、ISSに滞在中の若田船長からの電話だったというのだ! ISSの電話は、アメリカ国内の局番らしい。それからしばらく彼女は、若田さんからの電話を無視したスタッフとして有名になったらしい。

 

RUN AWAY

サイモン・グリーンは、セントラルパークの中にあるストロベリーフィールズで歌っている、ストリートミュージシャンをじっと見ていた。ギターも歌もあまりに下手で、ギターケースにコインを入れる人は多くない。汚れた服を着ている、そのやせっぽちの少女はホームレスのようだ。サイモンは、真剣に彼女の歌を聴いていた。彼女は数ヶ月前に家出した長女だったからだ。歌い終えた彼女に声をかけると、若い男が割ってはいった。サイモンは、その男を殴り、警察に逮捕される。そのときの映像を誰かがインターネットに投稿し、騒動になっていく。しばらくして、サイモンを警官が訪ねてくる。そのときの若い男が殺されたのだ。

SNSや遺伝子解析やハッカーが登場し、いままさに、そういうことってあるかもしれないと読者に思わせる。最後まで、予想を裏切りながら、ストーリーが展開していく、ページターナーな小説。邦訳も出る予定のようだ。

 

Run Away

Run Away

 

Xと云う患者

芥川龍之介を愛する、イギリス人作家が、芥川本人の身に起こったことと、作品の中の主人公との話をひとつの巻物のように繋げて書き上げた、不思議な話だ。芥川の作品が解体され、解題され、この小説の中で展開される。芥川龍之介本人の身に起こったことなのか、芥川の小説の中の話なのか、判断がつかないものもある。調べてみれば、その違いは明解になるだろうが、そのことはこの小説を楽しむこととは関係ないように思う。この小説が目指すものは、小説を含めた芥川龍之介の、不思議な世界観を堪能することなのだと思う。

本を読みながら感じたのは、映画チィゴィネルワイゼンを観た後と似ているということだ。私は、あの映画を観てからしばらくの間、現実の世界と、あの映画の中で描かれていた世界がどこかでつながっているように感じた。学校の長い廊下を歩いていると、突き当たりを曲がった先はあの映画の舞台にふっと入ってしまうのではないかとか思うことがあった。その体験もまた、別の映画、陽炎座の印象も混じっているのだが。鈴木清順監督の世界に、しばらくの間、迷い込んでいたと言うべきか。

この本の中では、芥川龍之介本人にまつわる出来事と小説の中の人物や出来事が同じように並んでいる。どちらが上位概念かわからない。引用している側か、されている側なのかもわからない。インターネットを通して見えてくる世界とよく似ている。あるいは、モーフィングのように、いろんな要素が一つの形に融合していくような作品だとも思った。

桃太郎の話は、金目当ての桃太郎に、荒くれ者のさる、きじ、犬が同行した強盗の話として描かれている。日本人は、悪い鬼を懲らしめる、正義の桃太郎と勇敢な動物たちの話として教え込まれているが、当然、被害者側の視点もあるはずだ。これに関しては、何年か前の朝日広告賞の受賞作に、鬼の子供が泣いている絵の横に、「僕のお父さんは桃太郎に殺されました」というような広告があったが、その視点と同じだと思い出した。映像的なイメージは何年か前のペプシコーラCMで、小栗旬が桃太郎を演じ、巨大なモンスターの鬼と戦う、ファンタジー映画のような世界を思わせた。そのCMには視点の逆転はなかったが。

それと、何度か、呪文のように、同じ言葉が繰り返されていた。「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。」ペシミスティックな観念ではあるが、真実のかけらを感じさせる言葉だ。

 

Xと云う患者 龍之介幻想

Xと云う患者 龍之介幻想

 

映画 茅ヶ崎物語 - My Little Hometown

茅ヶ崎はなぜ、音楽家や芸術家を多く輩出しているのか? そんな素朴な地元愛から生まれた疑問から、宮地さんというレコード会社社員であり、桑田佳祐の幼なじみが茅ヶ崎の歴史をざっと、まとめた映画だ。こう書くと適当な映画の感じがするが、実際、構成はかなりラフだ。それでも、加山雄三は出るし、中沢新一茅ヶ崎の歴史を考察する。浜降祭のこともよく分かった。若手の役者もなかなかのところを揃えたし、桑田佳祐本人が歌を歌うシーンも登場する。でも、地元の人じゃないとあまり楽しめないかも。

音楽評論家の萩原健太さんが、アマチュア時代のサザンオールスターズにいたなんて知らなかったな。

NHKスペシャル 彼女は安楽死を選んだ

一人の女性がスイスに渡り、安楽死という方法で最期を迎えた。おだやかに、そっと。

彼女は原因不明の全身の筋肉に力が入らなくなる難病になり、少しずつ自分の体が自分でコントロール出来なくなっていく。ある日、入院していた病院の医師に勧められ、同じ病気を持ち、さらに進行した人たちが入院する病院を見学に行くことになる。いつかは、自分が入院するかもしれない場所だ。彼女は呼吸器につながれ、自分の意志では何も出来ない人を見て、考え込む。生きるとは、人の尊厳とは、何なのか。それから何度か自殺を試みるが、衰えた筋力では自殺すらままならなくなっていた。

二人の姉が見舞いに来てくれるのだが、彼女は全面的に頼ることができない。それは性分なのだ。そして、彼女は安楽死について学びはじめる。日本では認可されていないが、スイスでは、条件が整った人たちに安楽死を選択させてくれる施設があった。人の尊厳を守るための1つの選択肢として、医師たちが運営している。スイスでは、国中で安楽死についての議論が長くなされてきた結果、こうした施設が出来たのだという。安楽死を認める条件とは、自分の意志であること、完治しない病気であることなどだ。彼女はスイスの施設にメールを出し、自分が自分であるうちにと、スイスへ二人の姉と共に渡る。そして、姉たちが見守る中、自分で点滴を開く。

幡野さんの本を読んで間もないタイミングで、この番組をみた。生きること、人間、家族、いろんなことを考えさせられる。彼女の妹はただひとり、最後まで、安楽死しないでと訴えていた。一人ひとり、生きることに対する考え方は違う。でも、そうしたことを話す機会さえないまま、一生を終える人の方が多いのではないか。二人の姉は、以前家族みんなで出かけた場所に、二人で花見に行った。お弁当と彼女の写真を持って。もう会うことはできないけれど、彼女の不在は大きな存在感を持って、二人の胸の中にとどまっている。自分の死は自分の生と一体のものだ。人間は少しずつ死んでいく、とはキケロの言葉だったか、村上春樹の小説の中の言葉だったか。悲観ではなく、自分のこととして、死は生々しく、日常と地続きだ。