Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

井上陽水英訳詩集

井上陽水の歌は、声の良さと単語の連なりの耳障りの良さに翻弄されて、雰囲気を楽しむものだと長い間思ってきた。本人も、かなり適当です、などと言っていたものだから、その言葉を真に受けてしまっていた。うかつだった。

キャンベルさんが訳されたと聞いて、ずっと読みたかった本だ。日本人が聞いても、ひとつの意味に集約することができない、あの歌詞をどのように英訳するのか、そもそもそんなことが出来るのか。実際に意味がとれない、あるいは何通りかに解釈できるところは、井上陽水本人に確認している。そして、問いかけられたことによって、陽水自身も、曖昧なままにしていたことを、あるいはどちらとも取れることを、再確認することになる。できあがった詞は見事な出来映えだ。もちろん、翻訳できない要素があったと認めているが、英訳と元の歌詞を見比べて、このように訳すのかと、感心する。陽水の歌詞とあの声と曲調が紡ぎ出した物語をキャンベルさんの頭の中で描いた上で、それを歌の歌詞として再現できる英語を探す。私は翻訳の勉強をしているが、これほど翻訳の技術や深みを感じることはなかった。井上陽水の歌を浴びるほど聴いてきたから、深いところで理解できたのだろう。この本を読んだ後、陽水の歌を久しぶりに聴いて、やはりいいなあと実感した。

キャンベルさんは、陽水の歌を英訳しようと思ったのは、病床でのことだったという。冒頭の自分語りのパートに、キャンベルさんの青春時代の話がすこし書かれていて、それの話もとても楽しめた。

 

井上陽水英訳詞集

井上陽水英訳詞集

 

 

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

NASAでは宇宙飛行士の家族をサポートする「家族支援プログラム」があり、家族を大きくふたつに分類していた。「直系家族」と「拡大家族」だ。直系家族はスペースシャトル打ち上げの際、特別室に案内される。打ち上げを間近に見られるというだけでなく、万が一の際に心理的・医学的なサポートを行うためだという。このプログラムの直系家族は1.配偶者、2.子ども、3.子どもの配偶者と定義されている。親兄弟は本人の親友と同じ拡大家族に分類されている。著者の幡野さんは言う。「家族とは『親子』の単位で始まるものではなく、『夫婦』の単位からはじまるものなのだ。同性婚を含め、自分で選んだパートナーこそが、ファミリーの最小単位なのだ。」

幡野さんは、親との関係に縛られて、不幸になっている人たちがかなりいることを教えてくれる。誰もが親を選べない。理不尽な目に遭わされても、親なんだから仕方ないと思うのはやめようと言う。「優先順位を間違ってはいけない。ぼくらはみんな、自分の人生を生きるために生まれてきたのだ。」

幡野さんは余命3年と宣告されてから、人生を見つめ直した。カメラマンらしい、対象に客観的に迫っていく視線で、生きるとは何かを考えた。そして、自らブログで宣言した。それを読んだ読者からいろんな反響があり、もちろん、ろくでもないものもあったけれど、幡野さんの言葉に触発されて自分のことを語りだした人々と、対談をすることに決め、そのうちの何人かとの対話がこの本でも紹介されている。そして自分の最期のことを考えている。奥さんと子どもにとって、どうなのかと常に考えている。自分が選んだ家族のために。

 

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

 

 

 

IQ

20056年の過去の出来事と2013年の現在の出来事が章が変わるごとに交互に進む。現在、探偵業を生業とする主人公のIQの生き方を運命づけたのが2005年に最愛の兄を事故で失ったことだった。過去のパートでは、現在にいたるIQの暮らしや交友関係が描かれる。

IQとは主人公のイニシャルなのだが、IQが高いために、そう呼ばれている。主人公はちょっと変わった探偵で、金のためというより、自分が肩入れしたい件を選んで働く。だから、慈善事業のようなものだ。しかし、どうしても金が必要になり、金回りのいい、ヤバい仕事に手を出すことに。頭脳を活かした推理力で事件の謎を解きほぐしていくが、マフィアや殺し屋と渡り合い、何度も死にかける。舞台は黒人のコミュニティ。ラップの訳詞が乗っているのが新鮮だ。訳者は大変だったのか、楽しみながら訳したのか。ステレオタイプではない、現代の黒人カルチャーが描かれていて興味深い。

最初は、なんだか読みづらかったのだが、後半にかけて事件が大きく動き出すとあっという間にページが進んだ。それでも、あまりの意外なハッピーなエンディングにちょっとしらけたのだが、最後の最後に、この本の続編を示唆する一行が出てくる。なかなか細かなところまで仕掛けを入れてきて、読者の感情を上げたり、下げたりするのが美味い作者だ。次回作も気になる。

 

IQ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

IQ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

生きているのはなぜだろう。

脳の研究者が、生きていることの意味を科学的に明らかにした言説に、あのILMで活躍する若きコンセプトアーティストが絵をつけた絵本。なーんて言ってみたが、まちがってはいないが、大切なものがするりと落ちてしまった。自分は何のために生きているのか、自分に生きている価値はあるのか、と自問した人は多いと思う。みんな生きているだけで価値があるんだよ、と言ってくれる大人はいるけれど、どことなくきれいごとに聞こえて、腑に落ちない。この本では、そうした「気の持ちよう」に生きる意味をもたせず、生命はエネルギーを散逸させる必然の構造であると断言します。だから、生きているだけで宇宙に貢献しているのだと。物事の本質を伝えるやり方が、小説のようで、とてもいいなと思った。小説という仕組みを改めて認識するきっかけにもなった。

 

生きているのはなぜだろう。 (ほぼにちの絵本)

生きているのはなぜだろう。 (ほぼにちの絵本)

 

 

映画 キングダム

途中で、うーんと思って一旦スクリーンから眼を外した。マンガを映画にするのは難しいのだなと改めて思う。

三月のライオンの映画は、よくできていた。マンガの世界観をしっかりと受け継いでいて、マンガの愛読者として満足できたし、それ以上に映画の中の登場人物がしっかりと自分の物語を生きていた。筋書きを知っているはずなのに、登場人物たちの切なさや悔しさや焦りを追体験できて、映画としてとても楽しめた。

キングダムは、原作のマンガのことが気になっていた。この映画を観ようと思ったのは、三国志のスケール感を実写で観たかったからだ。それと、最近知り合った人が面白かったと言っていたことも理由の一つ。スクリーンの中に映し出された中国の広大な景色は、わたしの想像とはすこし違っていたが、それはまあ良しとしよう。

気になったのは演出だ。アップを多用することから監督の意図はわかった。これはアイドルありきのテレビの作り方だ。興行的にはそれが悪いとは思わないし、大ヒットしている理由もそれがあたったのだと思う。ただ、崖を歩くシーンも谷底へ落ちるかもしれないという恐怖感は感じられないし、秦の王宮前に兵隊が整列するシーンもただ大勢がいるというだけで、圧倒する感じが伝わってこない。そして戦闘シーンでは、人間の動きではなくなる。ものすごいジャンプは人体の動きの延長線上になく、スーパーマリオのようにピョンと飛びはねる。高速回転する殺し屋は回転を説明する映像で描かれるだけで、対戦相手の動揺、恐怖が伝わってこない。

スターウォーズジェダイの戦闘シーンは緊迫感があり、ハラハラさせられる。投げ飛ばされるときも、生身の身体が投げ飛ばされるような、人体の重さ、何かに衝突するときの衝撃が描かれているから、観ていても痛みが想像でき、悔しさも共感できる。

マンガのように弾き飛ばされてしまっては感情移入はできない。マンガを実写にする意味はどこにあるのだろう。

映画の終盤に、王騎の得体の知れない凄みを感じさせることを目的とした場面があるのだが、目的は達成できていないと感じた。

NHKテレビ 英雄たちの選択 土偶を愛した弥生人

日本史の教科書では、1万年続いた縄文時代は、大陸から稲作と鉄器がもたらされると弥生時代へと変わった、と教えられている。

しかし、元号を変えるように、ある日一斉に日本中が稲作をはじめるわけはないし、1万年続いた文化などが一気になくなるわけもないのだ。今回の番組では、弥生人の集落と縄文人の集落が隣り合って共生していたことが近畿地方の遺跡から判明した。また、九州の弥生時代の遺跡からは、東北の特徴的な縄文土器の破片が見つかり、さらに縄文の代表的な遺跡である土偶が、近畿地方から見つかった。これはおそらく、大陸から九州地方に最初に伝わった稲作を学ぼうと東北に住んでいた人々が、九州まで出かけていったと考えられるそうだ。

また、縄文土器の特長は、自由な曲線やダイナミックさであり、弥生土器の特長は、円型や長方形など、規則性に基づく造形だという。これは、情緒や呪術的な世界観と、合理性に基づく世界観の違いではないかという考察があった。また、弥生後期になると、縄文的な文様が加わってくる。さらに、縄文人弥生人が共生していた地域では、双方から縄文的な宗教儀式を行っていたと思われる遺構が見つかっている。

日本人には縄文的な、つまり自然崇拝であったり、情緒的な思考をよしとするDNA的なものが現代人にも受け継がれているのではないかという話は面白かった。磯田さんはそれについての考察を広げ、日本の地勢的特長をあげ、これほど森林の多い国土に囲まれた国は他にはないために、自然に囲まれて生きてきたことが影響しているのではないかと言っていた。たしかに、宗教的な面でも、神道などは八百万神だし、自然のことを抜きに、人間つまり科学技術だけではやっていけないと、日本人は考えているのではないだろうか。江戸の町も、度重なる大火を防ぐ建築様式を取り入れていこうとするより、焼失してもすぐに再建できる木と紙と土の家を選択した。諦観というのではなく、想定できないことが起こることもあると、想定しておく、合理的な考えが大事なのではないだろうか。

あなたを愛してから

なんとも不思議な話だった。早川ポケットミステリーの一冊なのだから、ミステリーなんだと思って読んでいたけれど、いろんな要素が組み合わさったストーリーだった。読後も、これはミステリーなのか? と思う。謎解き、探偵、殺人事件、秘密、それに父親探し、パニック障害が組み合わさり、さらにまだまだいろんな要素が入り込んでいる。しかも主人公が自分の夫を撃ち殺す場面から、この物語ははじまるのだ。

レイチェルは、母の死後、自分の父親を探しはじめる。まだ幼いときに家を出て行った父親のことは、ジェイムズという名前しか知らない。心理学者でベストセラー作家だった母親は父親のことを一切話さなかったし、何の手がかりも残してはくれなかった。彼女は探偵を雇って、手がかりを探し始める。そして父のことだけでなく、母親の人生もたどることになる。

ジャーナリズムの世界に入ったレイチェルは、ハイチの大地震の取材中に感情が壊れてしまう。テレビの生中継でその姿を多くの視聴者に晒したために、仕事はクビになり、彼女自身も精神障害に陥り、家から出られなくなる。そのあたりから先は、ローラーコースターに乗ったように、話は進み、なんども振り落とされそうになりながら読者は必死でストーリーにしがみついて、453ページの最後の行まで突き進むことになる。

ロマンティック・サスペンスという分野があるそうだが、この作品は女性の一人称でストーリーが進み、恋愛小説とも言えるだろう。自分の中の不安と折り合いをつけながら、いくら愛している男でも、その言葉を額面通りには受け取らない。何かを指示されても、自分がゲームを主導できるようにしか行動しない。たとえ自分の命が危険にさらされるとしても。スーパーマンではない一人の女性が、自分ができることを常に考えながら、不安を抱え、愛情の火が消えてないことも認め、一歩ずつ踏み出す。そして小説の最後も、はっきりとした決着をつけないままで物語は終わっているので、レイチェルはまだ相手になんと言うのか、考えている最中なのかもしれない。

 

あなたを愛してから (ハヤカワ・ミステリ1933)

あなたを愛してから (ハヤカワ・ミステリ1933)