Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

ある男

夫が不慮の事故で亡くなり、妻はそれを会ったことのない、夫の兄に伝えた。弔問に来た兄は、死んだ男は弟ではないと言う。では、私の夫は誰なのか・・・。なんとも上手い設定で、ページをめくらせる。

真相を知った後、妻は、三年半の幸せな夫婦生活をどう考えていいのかと戸惑う。自分が結婚したはずの姓名の男ではなかったにしろ、その日々の愛情のやりとりはまぎれもない事実だ。この事件の真相究明に、妻の知り合いの弁護士が探偵役で登場する。小説の主人公は彼だ。その彼も事件を追いかけながら自らの人生を考える。途中でさりげなく妻の秘密に気づいたことを臭わせるが(読者はとっくに勘づいていた)、おおごとにしないですませてしまう。白黒つけないことは人生には往々にしてあることだが、この弁護士の性格を考えると、さもありなんということだろうか。愛とは、幸せとは、生きるとは何かを考えさせられる。

平野啓一郎はデビュー作を読んでみたが、三島由紀夫的な美文の作家なのだなあと思ったけれど、自分には関係のない物語だったので、それきり読むこともなかった。今回は読書会のために読んだのだが、上手に組み立てられている物語だ。

戸籍交換は貫井徳郎の小説にも描かれているが、この本は謎解きよりも、ストーリーの先を知りたくなる。この本はとても売れているようだ。なにが人々を惹きつけるのだろう。登場人物に悪人は登場しない。どこにでもいる人のようだ。そして、他人の人生を生きることを願望のように思う人がいるのかもしれない。

ある男

ある男

 

 

映画 バイス

これもアカデミー賞作品の一つで、ずっと観たいと思っていた。面白かったけど、映画を観ながらアメリカのことに詳しければ、もっと面白がれるのだろうと感じた。私は副大統領のことはあまり意識したことがなく、映画の中でも言っていたが、大統領が死んだ時に大統領になる人くらいにしか認識がなかった。ディック・チェイニーアメリカの法律の解釈によって、職域というか権限を変えたのだ。チェイニー以降は副大統領が大統領権限を自在に操ったことはないようだが、法解釈によって大統領の権限などを拡大しようというやり方は、大統領候補に名乗りを上げるような人や、ホワイトハウスのスタッフなどには当然の知識なのだと思う。新しい大統領が、自分のスタッフを総取っ替えして、自分にとって都合の良い人選をするのは、トランプはもちろん、日本の総理も同じなんだろう。政治は民主的に行われるわけでも、合理的に効率的に進められるわけでもなく、大統領とそのスタッフが自分たちの考える世界を築き上げていく行為なのだと思う。大統領になった人の倫理観や価値観にアメリカを通した世界の秩序がゆだねられるということなんだと思う。

この映画にはまた、映画的な遊びの要素がたくさん入っていた。まずは謎の狂言回し。中盤でどういう存在なのか明らかになり、メインストーリーの一部に取り込まれて行く。そしてシェイクスピア風にやってみよう、という狂言回しの言葉にしたがって、シェイクスピア劇が始まり、レストランでメニューを読むように政策のアイデアが読み上げられる。観客を楽しませようとする様々な要素がはいりこむのは、現代的なテクニックなのかもしれない。JFKのようなスタイルの映画は作りにくいのか、つまらないと思っているのか。

それにしても、登場する俳優がみな実在の人物によく似ている。チェイニーもブッシュも、他の登場人物も本当にそっくりだ。その時点ですでにコメディの予感がする。

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翻訳─訳すことのストラテジー

翻訳論にはあまり関心がなかった。欧米語間の翻訳と、欧米語から日本語への翻訳を同義に論じられないだろうなと漠然と思っていたからだ。それでも、大学の外国語学部では、翻訳論は人気だと聞いたことがある。抽象的なところで、くくることができれば、何かを語ることはできるだろうとは分かっていたが。今回、この本を読んで、翻訳という行為については、普遍的に語れることがあるということがよく分かった。

「翻訳とは、意味と呼ばれているものをある言語から別の言語に移すのではない。むしろ、『ある状況において、交換可能な』ことばを見つけるのだ」「翻訳はけっして、ソーステキストのあらゆる要素を厳密に再現するものではない。翻訳にはずれと改変がつきものなのだ。変身(メタモルフォーゼ)であって、複製(コピー)ではない」「訳者が訳出すべき決まったアイデンティティなどどこにもないということだ。翻訳を構成する読解・解釈・評価・換言といった行為はみな、翻訳が表現するアイデンティティを定義する役目を果たす」

「『エジプトの革命の女性のことば』は、Mosireenのようなメディア活動のグループのひとつだ。ビデオにスペイン語字幕がつくとどうしても性差が強調されてしまうのが普通だ。たとえばfriendは、女性形のamigaか男性形のamigoにしなければならない。ゆえに、(彼らは)先入観を与える語末のaとoを中立的なxに置きかえる」

適切な言葉を使うということは翻訳という行為によって自覚的になる。日本人の多くは(おそらく)政治や民族問題やジェンダーを意識することは少ないが、外国の言葉であらわされているものや事象、行為を日本語にして適切な文脈の中に置こうとすると、考えずにはいられなくなる。翻訳は面白いとも、深いとも、怖いとも言える。でも、こうしたことを自覚していることは大切だと思う。

翻訳 訳すことのストラテジー

翻訳 訳すことのストラテジー

 

米原万里の「愛の法則」

米原さんが亡くなられたのは2006年。もうそんなに経つのか。希有の通訳者であり、博識の文章家だった。この本は、米原さんの講演を採録したものだが、著書に描かれたことのエッセンスがつまっている。

国を持たない民族にとっては、言葉と文化が強くなり、アイデンティティを築く中心になるために、時に排他的になる。一方、日本は国土があり、国境が自然によってできているから、国土意識が薄くなり、他の国や他の文化と触れあうことは非日常的になる。だから、平気で日本語を捨てて、英語や他の言語を国語にしようという意見が何度もわき起こる。不見識でしかないというのに。また、アメリカ人の言うグローバリゼーションは自分たちの論理や価値観を他の国に押しつけよとすることであり、日本人の言う国際化は海外の基準を積極的に取り込もうという、正反対のことなのだと教えてくれる。

言語を分類する方法の一つに、孤立語膠着語屈折語という3分する方法があって、孤立語とは語順が重要な言葉で、英語や中国語がそれにあたり、膠着語とは助詞が膠(にかわ)となって重要な役割を果たす、日本語、ハンガリー語トルコ語などであり、屈折語は言葉の役割が語頭や語尾の変化や言葉の変化などの屈折によって決まる、フランス語、ロシア語がこれにあたる。そして言語に対して柔軟な感覚を育てるにはこの3つの言語を学ぶといいという。日本人は、英語以外にロシア語かフランス語を学ぶといいわけだ。

通訳は、言葉にとらわれず、元の言語で表現しようとしている概念をよみとって、それを通訳するんだ、という指摘は翻訳と同じだととても納得した。

米原さんの本は以前何冊か読んでいたので、まだ読んでいない本をよみたくなった。

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

 

 

旅猫リポート

ふだんは手にしない作家だが、読書会の課題図書なので読んでみた。なかなかのページターナーで、あっという間に読み終えた。とてもよかった。主人公はやさしい青年で、ある事情があって飼い猫を友人に引き取ってもらうため、車に猫を乗せて会いに行く。その友人は幼なじみで、久しぶりの再会だ。旧交を温め合う二人だが、猫をひきとってもらうことは出来ないと判断し、また別の友達の街へと猫と一緒にドライブしていく。そしてまた、猫は引き取ってもらえないとわかり、また次の友人のもとへ。その課程で、主人公の生い立ちがしだいに明らかになり、猫を預けなければならない事情もわかってくる。

猫が語る部分があるのだが、そういうことを考えているかもなあと思わせる。そうあってほしい、と人間が思っているだけかもしれないが、動物を飼っている人なら共感すると思う内容だ。後半にはいるころには、すっかり主人公にも猫にも共感してしまった。そして悪人の出てこない小説だ。私にとって新鮮な読書体験だった。

 

旅猫リポート (講談社文庫)

旅猫リポート (講談社文庫)

 

 

幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと

数多くの死を見つめてきた若い外科医が、死と向き合うことについて真摯に、素直に書いた本。医者は人間の死を、生と死の境をたくさん見てきている。なのに、医者が死について語ることはあまりないように思う。縁起でもない、と言われて封印されてしまうのだろうし、死とは何かという人間の根源を考え始めたら、手術ができなくなるかもしれない。それでも、この本の著者のように、医者はみな、死についての自分の考えを持っているにちがいない。

死は突然やってくる。予定通りに死ねる人はいない。もっと考えていいことなのに、考える機会はあまりない。身内や友人や飼い犬が死んだとき、さまざまな思いが心をよぎるが、そのまま自分の死を考えることにはつながっていない。死という事象についてゆっくりと考えるのは決して悪いことではないはずだ。しかし、日本は死の影を忌み嫌う。表通りをピカピカに磨いて、死を思わせるものを出来るだけ排除する。かつては大家族で暮らしていたから、子供のころに祖父母などの死を体験できたが、核家族になり、親戚づきあいも無くなってくると、死を身近にかんじるのは、大人になってからで、滅多にないことのように感じてしまう。

この本では、ある日突然、死を宣告される現代人は大きなショックを受けることになる。それは「自分の」死について考えたことがないからだという。死を考えることで幸せに死ぬこと、そして幸せに生きることにつなげるべきだという。そうかもしれない。そして「いつ死んでも後悔するように生きる」と言う。全力で生きていれば、必ずこころざし半ばで死ぬことになるということだ。とても納得できる。自分の死について考えることは、自分の生き方について考えることであり、自分の頭を使って生きろということだ。みんながそうだから、というのをやめることだ。

 

 

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

私にとってグレイトフル・デッドとえば、リーダーだったジュリー・ガルシアが真っ先に思い浮かぶ。片岡義男の本を読んで、彼が本を書いているのを知り、すぐに読んだ。哲学的な内容で、示唆に富んでいたが、大地からエネルギーをもらうという言葉は当時は上手く理解出来なかった。今なら、もう少し理解できるように思う。

この本は、タイトルの通りのとてもいい本だ。「グレイトフル・デッド」と「マーケティング」という言葉は縁遠いように聞こえるから、何か違う事を示唆する内容なのかと思うが、それが違っていた。ファンに対する彼らの態度や施策は、いわゆる一般のマーケティングとは違っている。たとえば、彼らは活動の初期から、ファンたちがコンサート会場で録音をしているのを知り、営利目的でない限りは全面的に録音することを認め、それどころか、録音機材を置く場所まで設けた。その結果、ファンたちは自分が録音したテープを友人に聞かせ、また互いに自分が録音したテープを交換しあうことで、ファンを増やし、絆を深め合っている。コンサート会場では録音禁止ということは、ミュージシャンにとっては当たり前のことになっているが、グレイトフル・デッドはそうしなかった。ファンを信じ、ファンに喜んでもらうことをするという態度を常にとり続けてきた。その結果、彼らのレコードやCDは売れなくなったのだろうか? いや、公式な音源も売れたのだ。ファンが録音したものは、口コミや宣伝のような役割を果たし、バンドの音楽が好きになったものは、高音質な公式音源も聞きたくなったからだ。これは、自分でもよく分かる。一時、F1レースを観るために世界各国を回っていたが、自分でも写真を撮ったが、プロのカメラマンが撮った写真が載る雑誌や書籍はしっかり買った。同じ写真でも、その役割が違うことは分かっていた。

それでも、ほとんどのミュージシャンはあいかわらず、録音禁止という方針を変えるつもりはない。また、コンサートチケットも、最前席はインターネットやチケットガイドでは買えない。良い席が欲しければ、郵便為替で、決められた住所に代金を郵送すれば、常連客でなくても、いい席が取れる。ファンを信じ、一緒に楽しもうという方針が一貫しているのだ。

マーケティングは、より最新の動向を知っている者が得をするような印象があるが、そうではない。自分たちが提供するものの価値を知り、どんなことをすればお客さんが喜ぶかを学んで、自らの道を突き進むことが重要なのだとこの本は教えてくれる。

 

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ