Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

パリの空の下で、息子とぼくの3000日

辻仁成の小説は読んだことがない。中山美穂とのことだとか芸能ニュースの人だと思っていたので関心がなかったのだが、NHKでパリ暮らしの番組を観て、変人ではあるがなかなか面白い人だと感じた。で、この本を読んでみるととても面白かった。

パリでシングルファーザーになったとき、息子は10歳。それから一人で子育てをしてフランスの成人の年齢18歳まで育て上げる日記だ。悲嘆にくれる息子を元気づけようと始めたのが料理。習ったことはなく、レストランの味を再現しようと四苦八苦して我流で覚えたという。どれも美味しそうだ。作家ゆえに、料理する時間は作り出せるのだろうけれど、それにしても息子に持たせるお弁当まで毎日作っていたのはエラい。

子育ての方針は、フランス語が母語だとはいえ、フランスという国では異邦人の日本人の息子が、自分がいなくなっても一人で生活していけるようにすること。友だちを大事にしろ、と言って、息子はどんどん友だちを増やしていくのだが、変人のおとっつあんは友だちが少ないらしい。でも、TV番組ではホームパーティーに友人が大勢来ていたけど。

ときどき、そうだよなと共感できる名言がでてくる。たとえば、音楽好きの息子の将来を展望したときに、YouTubeとかもあるよなと考えながら、「そもそも、YouTubeとかwebサイトって時流に乗りすぎていて、現実味がなさすぎる」と言う。また、とある教会の前でひざまづいて手を合わせた息子の姿を見て、「信仰があるかないかではなく、人間に祈りがあるかないか」なのだと考える思う。どちらも納得できる。

今後、辻仁成のを読むかどうかはわからないけれど、こんなふうに外国でしっかりと生きている人として、尊敬できる人だ。

 

音楽は自由にする

坂本龍一という人は、学究肌で物静かな人なのだと勝手に思っていた。クラシック音楽が主戦場なのかと思っていた。YMOの三人はずっとわかり合っているのだと思っていた。ラストエンペラーの映画音楽は、緻密に計算されて映像に合わせられていたのだと思っていた。ところが、どちらかというと、その反対だった。

1952年生まれの『教授』は、安保、ジャズ喫茶、アングラ演劇、現代思想ポップアートの真っ只中をくぐり抜けた人だった。前ページにわたって脚注があるのだが、彼の交友関係に出てくる人たちについての注を読んで、多くの事を発見した。私がまったく違う文脈で知っている思想家とデザイナーとミュージシャンが親子だったり、女性ミュージシャンの旦那さんが教授のマネージャーだったりしていて、びっくり。日本の文化的な奔流のど真ん中を泳いでいる人がYMOをやり、映画音楽をやっているのだ。本を読むことなどのお勉強ではなく、生身の人間からその時代を身にまとって今に至っているのだ。音楽はいろんなカルチャーを受け入れるものなのだなあ。

 

 

僕は珈琲

珈琲が呼ぶ、の続編となる、珈琲にまつわる記憶やストーリーが書かれている。映画の中で登場人物が珈琲を飲むシーンについての話は面白い。そんな視点で映画を観ていないからね。珈琲についての歌を探し回る下りも面白い。日本に珈琲が入ってきてまもない頃の流行歌のことで、まだ歌謡曲とも呼ばれていない時代のことだ。マグカップの話もコーヒー豆の話も興味深い。そして喫茶店の話となると、これはすっかり片岡義男だ。そこで原稿を書き、編集者と話し、ストーリーのきっかけをつかむ。神保町と下北沢の喫茶店がよく登場する。

この本を読んでいると珈琲が飲みたくなる。読みかけのこの本を持って、たまたま打ち合わせ場所だった神保町へ行き、昔ながらの喫茶店のカウンターで、珈琲を飲みながら最後まで読み終えた。そして、学生時代の頃のことをいろいろと思い出した。あの頃していたこと、やりたかったこと、漠然とした未来と不安についても思い出した。過去のこととして手放してもいいことはもうそのままでいいのだけれど、ただ忘れていただけのことと思い出そうとしていなかったことをまた引っ張り出そうと思った。珈琲を飲むひとときはとても大切なんだね。あらためて。

 

僕は珈琲

 

ライオンのおやつ

昨年、この小説を元にしたテレビドラマを観た。とても良かった。過剰にならず、淡々とでもひたむきに生き抜く様子が。

主人公は、末期がんに蝕まれ、離島のホスピスへ最後の時間を過ごしにやってくる。風光明媚なだけでなく、スタッフの温かさもあり雰囲気は暗くない。それでも、先立つ入居者を目の当たりにする。ときには絶望し、塞ぎ込み、逡巡する。でも、それは人間そのものだ。死期を知る人たちだけの特徴ではない。私たちは気づいていないか、気づかないふりをしているだけなのだ。

自分にとっての生と死を振り返り、前を向いて天命にまかせる。それはきっと昔の人間は誰もがふつうにやっていたことなのかもしれない。自分の人生を、自分のナラティブとして受け止め、前進する。きれい事なのだろうか。いや、こうした気持ちは誰もがわかるのではないか。

それにしても、この作家の文章は、すごい、優しい調子で力まずに書いていて、するすると読ませる。こうした作家の方が文豪なのではないかと思う。いい本だった。

 

緑の歌

はっぴいえんど細野晴臣の音楽が好きで、村上春樹の小説が好きな、台湾のイラストレーターの女性が漫画の形式で書いたとても私的な小説。音楽を聴くことによって広がる想像力と、豊かな感受性で感じ取る現実がつながっていて、独自の世界観を描いている。主人公の緑は大学生。ミュージシャンの彼のことで頭がいっぱいになるが、素直に思いを打ち明けられない。自分は彼のために何もして上げられないと思って悲しくなっている。それから細野晴臣のことが本当に好きで、台湾でのコンサートに出かけて深く音楽の世界に入り込む。

最近、日本でもはっぴいえんどや細野さんのことが取り上げられることが多かったけれど、彼らの音楽は、あの頃、70年代かな、その時代の空気を伝えてくれるし、同時に流行廃りとは無縁の時空に存在しているようにも思える。音楽的にはとても豊かな時代だった。

優しい絵が物語のトーン&マナーに本当によくあっていて、懐かしいとかいう感情だけではなく、気持ちのすれ違いや言葉にならない思いなど、かすかな気配のようなものまでくみ取って、主人公の心の機微を伝えている。この作家の次回作が楽しみだ。

 

長い別れ

チャンドラーのこの作品は、三人目の訳者を得た。読み始めてすぐに、これは好きな小説だとわかった。だからマーロウとの時間をできるだけ楽もうと、じっくりと時間をかけて読んだ。今は心地よい読後感に酔いしれている。

清水訳の長いお別れが垣間見せてくれたハードボイルドの世界は、初めての海外旅行のときのように何もかもがキラキラして見え、一気に翻訳小説の魅力にはまってしまった。ロング・グッドバイは探偵の一人称が物語をドライブしていくのがよくわかったけれど、どういうわけかそれほど心は躍らなかった。今作、長い別れで、遠い日に一目惚れしたマーロウにようやく再会することができた。漠然と抱き続けてきたイメージはそのままに、人間味のある台詞に惚れ直した。会話がとてもいい。ロバート・ミッチャムでもエリオット・グールドでもない、チャンドラーのフィリップ・マーロウがここに生きていた。

最近は、翻訳小説の名作がいくつも新訳されている。新訳といっても、今時の言葉を多用するから新訳だというわけではない。舞台となっている時代の空気を、かつてよりも解像度を上げて描きだすことが新訳する意味なのだと、本作を読んで感じた。長いお別れを読んだときは、台詞や行動にところどころ謎があると感じていて、それもチャンドラーの作風なんだから、と自身を思い込ませていた。が、この新訳ではそうした疑問を抱えることなく一文一文を楽しみながら読み終えた。考えてみると、翻訳文学というのは面白い。原文を元に、日本語でその国の文学を表現するという、そもそも矛盾しかない芸当をしているわけだ。この作品でも、オリジナルにあったハードボイルドのフレーバーを損なうことなく、いや、読者のことを考えていくらかは味付けもしてくれてはいるだろうが、日本文学とは違う小説世界を提示してくれている。この作品は本当にいい翻訳だと思う。田口氏風にいえばエンタメ翻訳だが。

今回、この本を読んで特に感じたのは、人間を描こうとするチャンドラーの思いだ。探偵は犯人捜しや謎解きのために行動をしているわけではない。様々な人物が行き交う場に誘い込まれ、会話し行動していく中で、出来事と出来事をつなぎ合わせ、大きな絵を描いていく。読者は、探偵とともにさまざまな登場人物に会い、理不尽な目に遭わされ、ときには探偵の言動を俯瞰で見たり、ときには探偵の考えがわからずに置いて行かれたりしながら、物語の中を進んでいく。そして最後のページを迎えるころには、探偵とともに出会ってきた人物に思いを馳せ、物語の余韻のなかにもう少し佇んでいたいと願う自分に気づく。警察官だって善人もいるんだよ、などとほんの少し訳知り顔になった自分に。この余韻にまだまだ浸っていたいと思わせる素晴らしい一冊だった。

女のいない男たち

映画ドライブマイカーの原作となった短編集だ。映画を観たあとに読み直してみた。たしかに、あの映画はこの小説集の世界観をうまく表現していたなと思う。それでも、小説を読んでいるとき、わたしの頭の中にある主人公は西島秀明ではない。あたりまえだ。映画では淡々とした時間を生きているような役だったが、私の頭の中の主人公はもっと淡々としていたかな。いや、どっちがいいというものではないが。声も西島さんではなく、村上春樹本人でもなく、もっと普通の青年の声音がわたしの頭の中で聞こえていた。

小説と映画を比べると、小説のほうが当たり前だけれど、ずっと自由で、ずっとおかしな出来事が平気で成立する。映画は文章で描かれたものを命あるものにして、ビジュアルに表現しなければならないのだから大変だ。だから、小説と映画を比較してもあまり意味がない。異種格闘技のようになってしまうし、最強を決める必要もない。小説では内面を描くときに独白のような方法が使える。映画では、誰かを相手に自分の想いを口にするほうが自然だ。今回の映画も、とても映画的な最終シーンでとても良かったと思う。小説では日常の風景の中のシーンのまま短編が終わる。読後にずっと、その世界の余韻が漂っている。そこからまだ物語を続けることも出来るのだろうけれど、そっとその場を立ち去るのも素敵な終わりかただ。

小説を読み慣れていると、アナログの音楽ブレイヤーのように、主人公の姿と声が頭の中に再現される。姿までも想像できるのだが、ビデオデッキでもなく8ミリ映写機でもなく、私の場合はレコードプレイヤーくらいの機械が小説を再生しているような感じがする。