Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

映画 9人の翻訳家 囚われたベストセラー

ダン・ブラウンの小説は世界同時発売する際に、秘密を守るためのルールーがかなり厳しかったと、日本語版の翻訳を手がけた方が書かれたものを読んだ覚えがあった。で、それを元に作られたと聞いていたので、どんな映画かと思っていたら、予想もつかない展開に驚いた。

『デダリュス』というフランス語で書かれたミステリー小説の完結編を世界同時発売するために、9カ国語それぞれの翻訳者がフランスの田舎町にある屋敷に集められる。3ヶ月、そこで缶詰にして各国語の翻訳作業をしてもらうというのだ。セキュリティのために、鍵をかけられ、インターネットに接続できるものをすべて取り上げられ、ひたすら翻訳をしろという(これは調べ物を考慮していないんだね)。そんなセキュアな場所のはずなのに、原稿が持ち出され、ネットに流出させたくなければ身代金を払えと迫られる。いったい誰が持ち出したのだろう。

映画の中で、翻訳者は無名で稼ぎの少ない仕事だという台詞があるが、無名に関しては、日本は違うと思う。全員というわけではないが、翻訳者の名前で買われる本もあるからね。それと、翻訳者同士がフランス語しかわからない敵(?)を前に、スペイン語と中国語で内緒話をするところは面白かった。外国語を学ぶことの醍醐味の一つだからね。

映画はまあまあ面白かった。映画音楽を、一度一緒に仕事をしたことのある三宅純さんが手がけていたのはうれしい驚きだった。

愉楽

大陸の山間にある寒村は、足がなかったり、耳が聞こえなかったり、目が見えなかったりという人しか住んでいない。みんな助け合って農作業をするが、たいした収穫は望めない。年に一度の祭りの時には皆が歌や踊り、そして特技を披露する。その村を豊かにする方法はないかと考えていた野心あふれる県長は、観光の目玉としてレーニンの遺体をロシアから買い取り、ここにレーニン廟を作ろうと考える。そして、その買収のための費用を村人たちの特技を見せて全国を巡業することでひねり出そうと画策する。巡業は大成功し、村人たちも大金を稼ぎ、いよいよあとはレーニンの遺体を入れるだけとなった、山の上のレーニン廟で巡業団は最後の公演を行う。そこで一泊した一段は、翌朝、稼いだ金がすべて盗まれたことに気がつく。健常者である「完全人」たちが盗んでいったのだった。失意の中で村に戻りたいと願う団員たちにまた別の試練がやってくる。

荒唐無稽に思えるほど大きな小説のアイデアが進行する合間に、寒村の描写、村人たちの切ない日常が描かれ、ハラハラしながらページを繰る手は止まらない。また、いくつかの言葉を注釈のように取り出しては、一章にあたるほどの文章量でそれまでの経緯や登場人物の過去、時代背景を書き連ねる。これはこの作家の発明なのではないか。

寒村の厳しい日常、大自然の猛威、人々の差別意識社会主義と資本主義のメリット・デメリット、女性活動家の理想を追うエネルギー、国家主義の身勝手さ、立身出世がすべてという生き方、日銭に翻弄される民衆、退屈で単調な日常の中で夢を見せいほしいと願う思い。そうした複雑な要素を小説という形にまとめ上げるこの著者の力量には驚かされる。

著者はあとがきの中でリアリズムが小説を駄目にしたのではないか、と投げかける。この本を読了した後では、深く頷くしかない。リアルでないからと、この本が読者に提供する体験を否定することはできない。個々に出てくる登場人物たちのあり方は痛いほど切ないほど胸に染みわたる。

愉楽

愉楽

  • 作者:閻 連科
  • 発売日: 2014/09/26
  • メディア: 単行本
 

 

映画 用心棒

もう何度も観ているのだが、椿三十郎と混同していたところもあったので、今回はっきりとわかって良かった。本当によくできている映画だ。思ったよりも喧嘩などのシーンは少なく、テンポ良く話が進む。役者がまた凄い。黒澤映画でおなじみの顔ばかりだが、人間の描き方が深い。

ふらりと町にやってきて、悪党どもを退治してまたふらりと去って行く主人公は何者なんだろう。タフで腕っ節が強いだけじゃなくて、頭もいいし、冗談も言う。ハードボイルドの探偵に近い。そいつが事件に首を突っ込んだばかりに、もしかしたら死ななくていい人が死ぬことになったり、依頼主の思惑とはどんどんそれていったり。ハメットやチャンドラーが好きなアメリカ人はきっとこの映画も好きなんじゃないかな。

それにしても三船敏郎のかっこいいことよ。司葉子の美しいこと。夏木陽介が駄目なぼんぼん役で出ている。西村晃加藤武がチンピラ役。ジェリー藤尾もはったりだけの弱っちいヤクザ役ではまっている。もちろん黒澤監督の凄さでもある。本当に面白かった。

用心棒 [Blu-ray]

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  • 発売日: 2009/12/18
  • メディア: Blu-ray
 

 

人間

又吉直樹の三作目。二作目は読んでいないのだが。

三十八歳の主人公はライターなどをしながら本を出版し作家と認められるようになった。そこへ昔の友人から一通のメールがとどく。若い頃に数人で一緒に一軒家で暮らしていた時代があり、その頃の同居人の一人がネットで炎上していることを知らせてきた。思い出したくもないやつなのだが、ライター業をしているそいつのことはどこか気になっていた。ネットを見ると若い頃の苦い思い出が蘇ってくる。そして同居時代の苦い思い出が語られる。

上の原因となったのは、そのいけ好かないやつが、芸人で小説を書いているある男を自分の連載記事で取り上げて批判したことだった。テレビでコメンテーターをした際に、芸人なら笑わせろ、というそこの浅いどうでも言い記事だった。批判された男はそれに理路整然と反論する。ライターは腰砕けですぐに謝罪メールを送るが、作家はその文章もまた執拗に批判し、その一部始終を熱とで公開していた。主人公はそのやりとりを読んで、あの一軒家で同居していた中にいた、一人木のあった男が、その芸人で作家の男なのだと気づく。そして下北沢のバーで二人は遭い昔のような議論を交わす。太宰治の「人間失格」についての話も出てきて、作家又吉の素が出ているかのように饒舌な議論が深夜のバーで延々と続く。こうした時間は、主人公がずっと求めていたもので、同居していた家を逃げ出すように出て以来、久しぶりの熱く青臭く充実した時間を過ごす。そけを最後にその芸人で作家の男とは連絡がとれなくなる。

主人公の作家は、最新作を上梓したあと、父の地元の沖縄に里帰りする。酒浸りの父親とそれを優しく見守る母親、地元の人たち。いろんな人間がそれぞれに自分の世界を生きていると感じるのだ。

現在からすぐに過去の回想になり、現在の話になり、そして自らのルーツ探訪とも言える里帰りの話という三部構成になっている。芸術家を目指すやつが集まって暮らしていた上野の一軒家。そこで、プライドも彼女も一気になくすほどの事件が起こる。それからの人生は、そこから遠ざかるようにひっそりと暮らしてきた。が、主人公の記憶は時々怪しく、幻覚のようなものもある。やばいやつと思われても仕方ない。かつて仲の良かった親友と昔のような議論を交わすことで、まともな人間にもどったようだ。いや、ずっとまともだったのだが、世の中の方がまともではなかったのかもしれない。その後、物語の流れとしてはちょっと唐突に沖縄での生活描写になる。田舎から都会に一度出て、里帰りすると、両親の言動になんとなく違和感を感じるようになる。自分が都会のほこりまみれになったことを大人になったと勘違いして、自分が育った場所の日常がずっと続いているのを田舎ものだと感じたり、逆に自分の嫌なところを両親や親戚やその土地の人たちの中に見てしまい、自己嫌悪に陥ったり。

起承転結的なストーリーをどことなく求めてしまって、不満を感じてしまうのは、ミステリー小説ばかり読んでいるせいなのだろう。文章と行間を読みながら時間を過ごす楽しみを思い出した。

人間

人間

 

 

映画 羅生門

この映画を観たのは何回目だろうか。年末にWOWOW三船敏郎特集をやっていたので、録画して観てみた。映像がきれいだ。三船が生き生きとしている。京マチ子が美しい。志村喬、千秋稔、安心して観ていられる。そして、ストーリーの謎が残る。古くならない映画だ。

当事者が三者三様に、三つの真実が語られる。どれが正しいのか、検非違使は判断を下せなかった。唯一の目撃者が、下人に問われ四つ目の真実を語るのだが、すべてを語ったわけではなかった。短刀を盗んだことは口をつぐんでいたのだが、それを下人に指摘されてしまう。

これは法廷劇の一種なのだ。当事者が弁明し、証人が証言をする。そして判事が嘘を看破する。それなのに、判事の役割を果たした下人は捨て子の身ぐるみを剥いでしまう。それを見て誰も信じられないと旅法師言う。が、目撃者であった杣売りは、捨てられた赤ん坊を自分の子供と一緒に育てると言って、雨上がりの道を歩いて行く。僧は自分の思い込みを恥じ入る。

最後のくだりは、とってつけた感が否めないが、そのことによって、真実というものは一つではないとより思わせる。普通に生活していく上では真実というものは事実とほぼ同義であり、一つしかないものだと思う。けれど、人と人が深く関わり、込み入った状況になった場合は、それぞれに真実があっていいのではないか。誰もが嘘をついているということではなく、自分にとっての真実があるのではないだろうか。

 

思い出 人間は納得したい動物である

父の事を思い出した。亡くなってから20年以上過ぎている。父は石油の掘削の技師だった。若い頃、仕事中に石油の井戸を掘るドリルの刃の破片が目に入り、片目を失明した。とはいえ、見た目は全くわからず、片方の目だけで運転もしたし、仕事も日常生活も普通にしているように見えていた。時々、晩酌の酒がすすんだときなど、猪口に徳利で注ぐときに慎重に位置合わせをしていた。そんなとき以外は父親の目のことを意識したことはなかった。自分で「俺は一眼レフだからな」というとき以外は。

そんな父が定年を迎えてからしばらくして、失明した眼球の中にあるドリルの破片を取り出すと言い出した。鉛筆の芯の先くらいの大きさらしいのだが、水晶体の奥まで入り込んでいる。それを取り出すということはつまり、片方の眼球を摘出するということだ。支障なく仕事をしてきたのに、その仕事も定年まで勤め上げたのに、なんでいまさら、と思った。父は詳しい理由は語らなかったが、ずっとその小片のことが気になっていたと言った。

そして、無事に眼球を摘出し、今度は義眼を入れることになった。ガラスのおはじきのような目玉を、元々は目のあった場所に肉が盛り上がってきたところにはめた。その眼は平面的なものだと見てわかるので、何だか不思議な目つきに見えた。もともと機能していなかった眼なので、父の生活習慣が変わることはなかったが、眠っている時もその眼は開いていることが多かった。

本人以外には決してわからないし、(たとえ家族だとしても)他人から見たら、そんなことをする必要があったのかなと思うけれど、本人には絶対に譲れないことがある。折り目なんかとっくになくなっていたズボンに、改めてアイロンで折り目を付け直すように、自分にしかわからないケジメの付け方があるのだ。何だか急にそんなことを思い出した。

丁庄の夢

中国の寒村の物語。住民のほとんどがまもなく死にゆく運命にある。貧しい暮らしから抜け出そうと売血を勧められ、エイズに罹ってしまったのだ。最初は3ヶ月に一度だったが、現金ほしさに1ヶ月に一度になり、2週間に一度になり、もっと短期間で売血するものも現れる。値を買う側も商売敵よりも利潤を上げようと、同じ針を使い回し、血漿だけを買う場合には、いったん採取した大勢の血液を集め、血漿成分を取った後に残った血液を採血者の体内に戻していた。

1990年代半ば、中国政府は輸血用の血液不足解消のために売血政策をとった。中国中央部の貧しい農村の住民は売血所に殺到した。

この物語は死んでしまった男の子の視点で語られる。彼の祖父はエイズに罹った村人たちを廃校になった小学校に集め集団生活を始める。全員が同じ運命を共有しているせいか、穏やかな日常が続いていたが、次第に恋仲になるものが現れ、泥棒が現れ、権力をほしがるものも出てくる。たしかに、誰もが等しく死に行く共同体とは、我々の社会そのものだから、同じようなことが起こっても当然だろう。しかも、姦通しようと犯罪に手を染めようと、「どうせもうすぐ死ぬのだから」と開き直ってしまうからたちが悪い。

そしてあまりに大勢が死ぬものだから棺桶不足になる。死んで棺桶がないということは、あの世で幸せになれないからと必死で本人も家族も確保しようとする。高値で売りつける商人も現れるが、貧乏な農民たちは、棺桶用の木材を確保しようと村中の木を切りたおす。学校の机や黒板をかっぱらう。埋葬品を工面しようと、盗みに走る。

さらには、若くして死んだ若者たちにはあの世で夫婦にしてやろうと、同じ年頃の死者を探し、一緒に埋葬しようとする。その斡旋業者が現れる。そうした業者たちは都市の高級住宅に住み、繁栄を謳歌する。男の子の父親もそのひとりだ。売血で儲け、今は斡旋業で莫大な富を築いている。祖父は息子に、つまり男の子の父親にみんなの前で謝れと言い続けている。

丁庄の村は、病気で村人が死に、生き残ったものは村を離れ、木は切りたおされて、本当になにもない場所になった。祖父だけがひとり村に残った。

この本を読んで、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を思い出した。設定はまったく違うが、自らの命が尽きるのを運命として受け入れなければならない集団の葛藤は、どんな集団にも共通なのだと思う。それは人間という集団にも敷衍できる考え方だから。

丁庄の夢―中国エイズ村奇談

丁庄の夢―中国エイズ村奇談