Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

思い出 人間は納得したい動物である

父の事を思い出した。亡くなってから20年以上過ぎている。父は石油の掘削の技師だった。若い頃、仕事中に石油の井戸を掘るドリルの刃の破片が目に入り、片目を失明した。とはいえ、見た目は全くわからず、片方の目だけで運転もしたし、仕事も日常生活も普通にしているように見えていた。時々、晩酌の酒がすすんだときなど、猪口に徳利で注ぐときに慎重に位置合わせをしていた。そんなとき以外は父親の目のことを意識したことはなかった。自分で「俺は一眼レフだからな」というとき以外は。

そんな父が定年を迎えてからしばらくして、失明した眼球の中にあるドリルの破片を取り出すと言い出した。鉛筆の芯の先くらいの大きさらしいのだが、水晶体の奥まで入り込んでいる。それを取り出すということはつまり、片方の眼球を摘出するということだ。支障なく仕事をしてきたのに、その仕事も定年まで勤め上げたのに、なんでいまさら、と思った。父は詳しい理由は語らなかったが、ずっとその小片のことが気になっていたと言った。

そして、無事に眼球を摘出し、今度は義眼を入れることになった。ガラスのおはじきのような目玉を、元々は目のあった場所に肉が盛り上がってきたところにはめた。その眼は平面的なものだと見てわかるので、何だか不思議な目つきに見えた。もともと機能していなかった眼なので、父の生活習慣が変わることはなかったが、眠っている時もその眼は開いていることが多かった。

本人以外には決してわからないし、(たとえ家族だとしても)他人から見たら、そんなことをする必要があったのかなと思うけれど、本人には絶対に譲れないことがある。折り目なんかとっくになくなっていたズボンに、改めてアイロンで折り目を付け直すように、自分にしかわからないケジメの付け方があるのだ。何だか急にそんなことを思い出した。