Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

映画 ハリーの災難

1955年の作品。舞台のような展開の映画だ。

森の中に男が倒れている。死んでいるようだ。とおりかかった少年が見つけ、駆けだしていく。次にライフルをもった男がやってきて、自分が撃ったのだと思い、隠そうとする。

そこに婦人がやってくる。死体を見ても驚かない。次に医者が本を読みながらやってくる。男の体に躓いて転ぶが、気付かずに歩き去る。そして男の子が母親を連れてくる。母親はその男がハリーだと言うが、死んでいることにまったく動じない。それから流れ者の男がやってきて、男の靴を盗んでいく。絵描きの男がやってくる。そしてライフルを持った男と一緒に死体を埋めることにする。ライフルを持った男は、自分が撃ったと思って、それは事故だから、これ以上問題を起こさないようにと勝手な理屈で埋めようとする。自分が撃ったのではない可能性が浮上すると、自分の無実を主張するために掘り起こそうとする。また、別の真犯人を名乗る人が登場すると、自首するからと言って、もう一度掘り起こし・・・。結局ハリーは4回埋められては掘り起こされる。そして保安官が嗅ぎつけ・・・。

小さな村の住人たちは、他の人のことには無関心だが、自分のことになると絶対に譲らない。他人だったはずの住人と親しくなると、こんどはその人のためになることをしようとする。くるくると視点が変わり、利害関係が変わり、意外な方向へ物語が進んでいく。一人の人間がリーダーシップをとるのではなく、それぞれが自分の論を主張する。このあたりは民主主義の表れなのか、日本の物語だったならこうした展開はないだろう。

村に一つ死体があるだけで、こんなにドラマが動いていくものなのだ。不条理劇のようで、人間の内面の真実が見えてきて、観客を仲間に引き入れた後は、小さな出来事で終わらせる。上手な展開だ。

若き日のシャーリー・マクレーンが美しい。ジョン・フォーサイスのしゃべり方はトム・ハンクスとよく似ている。当然、時間の流れから考えて、トム・ハンクスが参考にしたのではないかな。

名著から学ぶ創作入門

この本の原題は「愛しきものを殺せ=Murder Your Darlimgs」と知り、読んでみた。著者は創作を教えることもしている作家。さまざまな文章の書き方についての本を分類しながら紹介する、参考書の参考書。有名な作家からジャーナリスト、劇作家、脚本家などの文章作法を引用しながら、著者の視点で次々と繰り出してくる。私が読んだスティーヴン・キングの「書くことについて」も出てくる。世界にはいろんな文章のプロがいる。誰もがそれぞれの視点や哲学を自分の言葉で語っている。つまり一流のコーチがずらりと並んでいるわけだ。それぞれのコートの教え方をガイド付きで体験レッスンを受けているような気になってくる。自分にとってわかりやすい言葉で教えてくれるコーチがいる。考えてもみなかった視点を与えてくれるコーチもいる。ついつい、自分も文章を書いてみようかという気になった。

まずは文章を書き始め、迷ったときにこの本をまた開くことにしようと思う。

 

人生の目的の見つけ方

このようなタイトルの本は苦手なのだが、著者が知り合いの知り合いくらいの方で、面白い講義を大学でされていると聞いていたので、Kindleセールで買って読んでみた。

まっすぐな人なのだと思った。落ち込むとどこまでも落ち込んでしまうのだが、人の話を聞いて納得できれば、すぐに自分の考えや行動を改める。もちろん、紆余曲折はあるのだろうが、自分と真剣向き合い、幸せとは何かと考えていく。どうにも好きになれない相手と話していて、その理由は、自分の心の投影だったのだと気づく。そうか、この人の話し方、上からの目線、それは自分の態度の鏡映しだったのだと。

この本を通じて、著者が自分の信じていることを書いているのが伝わってくる。ハッピー、人生、ハート、感動、そうした言葉はかつて恥ずかしいと思いながらそっと言う言葉だったが、テレビ欄や週刊誌の見出しや、はたまた新書のタイトルにもなっている。安易なマーケティング戦術として使われてしまうことも多々ある。この言葉を聞いたり見たりすると、どんな人が言っているのだろうと確かめたくなる。今回の本は、著者が真面目に倖せについて考えているのがわかった。でも、このタイトルのセミナーとかがあっても、行かないと思う。ご縁を感じて読んだこの本は無駄ではなかったが。倖せという言葉の扱いは難しい。

 

アメリカの鱒釣り

不思議な47の物語。鱒釣りの話なのだが、釣りの話ではない。「アメリカの鱒釣り」という概念や言葉や不思議な存在に関する物語だ。「アメリカの鱒釣りちんちくりん」とは何のことだ。ポストモダンと言われて、なるほどと思った。そういうことか。学生の頃に読んだことがあるとずっと思っていた。今回は訳者の藤本和子さんの文章を読もうと思って再読したつもりだったのだが、前に読んだ記憶があまりない。難解であきらめたのか、途中でやめてしまったのだろう。リチャード・ブローティガンについての本を読んで勘違いしていたのかもしれない。こうした幻想的な小説は面白いと思ったが、まねできそうにない。まねして書いてみたなら、ただナンセンスになるだけだろう。ましてや、これを原書から翻訳することを考えると、お手上げだったと思う。この本の解説で柴田元幸さんが学生の頃にこれを読んで翻訳の自由さを楽しんだというのだから、恐れ入る。

その柴田さんが、自分にとってターニングポイントになったこの本の解説を今回書けて恩返しができたという。ふうん。私が恩返しするとしたら、(となぜか今回は自分ならどうしたろう、と考えてしまうのだが)翻訳小説への恩返しか、ミステリー小説への恩返しか、はたまた本への恩返しか。考えてみるのに値する問いだ。

当初の目的の藤本さんの訳語は、原書と引き比べたわけではないから検証はできないが、この本の、ブローティガンの世界観をしっかりと日本語で伝えていると感じる。そもそも翻訳文学を読むという行為は、外国語で綴られた物語を日本語で読むという複雑な行為だ。何語で読んでいるなどと考えることなく、その物語の世界に浸れるのが翻訳の究極のあり方だろう。そういう意味で、素晴らしい訳書だと思う。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 

 

体の贈り物

私は今日もリックの部屋に出かけていく。いつも何か欲しいものはないかと電話で聞いてから出かけていく。今日は何もいらないから手ぶらで早く来て、という。急いで部屋につくと、彼はうずくまって動けなくなっていた。すでに電話をして医者に連れて行ってもらう手配をしたという。迎えに来たマーガレットにリックを託して、私は部屋の掃除を始めた。以前リックはバリーと一緒に暮らしていたが、彼が死に、体が思うように動かなくなってから、私がここへ来るようになったのだ。

この本は後書きも表紙の裏に書いてある文章も読まずに、最初の短編を読んでいたら、最初は彼女なのかと思って読みすすむとそうではないことがわかってくる。「私」は、エド、コーニー、カーロスの元へも同じように通う。彼らは程度の差こそあれ、身の回りの世話を私に頼んでいるのだ。そして彼らは、遅かれ早かれアパートを出てホスピスへ行くことになる。彼らはエイズにかかっているから。

淡々と事実だけを書いていくなかに、ささやかな愛情や小さな贈り物が浮かび上がる。私はビジネスライクに接しているわけではない。何をしてほしいのか、何をしてほしくないのかがわかるからこそ、感情の起伏を抑えて淡々とさまざまなことをこなしていく。とはいえ、ジョークだって口にするし、涙を隠せないときだってある。いつも愛情一杯に彼らと接しているからだ。ボロボロになってしまうのではないだろうかと心配になる。この本を読み終えてカズオ・イシグロの「私を離さないで」を思い出した。すぐにも愛憎たっぷりの話になりそうな題材を淡々と書き切ることで、小さな贈り物のありがたさを浮かび上がらせている。

体の贈り物 (新潮文庫)

体の贈り物 (新潮文庫)

 

 

 

NHKテレビ よみがえるオードリー・ヘップバーン

ハリウッドのメークアップアーチストとして、2度のオスカーに輝いたカズ・ヒロ。

彼は理不尽なことの多い映画界を離れ、現代アートの世界に転身した。彼が作るのは人間の頭部。リンカーンジミ・ヘンドリックスフリーダ・カーロアンディ・ウォーホールなどの巨大な頭部をメークアップアーチストとして磨いた技を駆使し、シリコン樹脂で立体的に作り上げる。頭髪や産毛、髭などは一本一本埋め込んでいく。顔の色も、最初に毛細血管の青色を塗ってから他の色を重ねていくのは人体構造を再現しているようだ。だから人間の頭部の8倍近くもある像なのに、皺、筋肉、毛細血管まで、まるで生きているようだ。そして再現された表情は、微笑み出す一瞬など、その先の行為を予感させる。

昨年、展覧会に出品するためにオードリー・ヘップバーンの像に挑んだ。作るのは二体。一つはローマの休日の頃の若き美貌の中に強い意志を感じさせる表情。もう一つは晩年に映画界を離れてボランティア活動に身を捧げていた時の慈愛を秘めた表情。同じ人物が、それぞれの人生経験を反映したまなざしを投げかける。映画や絵画とは違って、立体像は正面だけでなく、右からも左からも表情をのぞき込めるし、後ろにも回り込める。まずは、生きているようなそのリアルさに驚く。それから美貌に。次第に意志の強さや頑固さも感じ取れる。ヘップバーンのさまざまな人生の局面が浮かび上がると気づくと、どれだけ見つめていても飽きない。会場を訪れたシャーリーズ・セロンは、2体並んでいてもどうしても晩年の像のほうに目がいくと言った。人生の深みが刻まれていて、様々なことが読み取れるからだ言う。

カズ・ヒロはその人の人生を作り込むのだと言う。できるだけ多くの写真や記事、映像などから、その人の人生をイメージする。人間の右の顔と左の顔は対称形ではない。目に、口元に、顔の筋肉に、内面に抱えた多面的な性格を具象化していく。彼は京都で育った幼い日々に、人々の表の顔と裏の顔の二面性などに関心を持っていた。そして、人間の顔の不思議さに強く惹かれ、高校生の頃から特殊メイクのアーチストを志す。人間の顔はその人の人生が集約されているという考えが、彼の作品を興味深いものにしている。ハリウッドでNo.1のメイクアップアーチストになったが、CGの台頭などもあり、メイクの重要性を顧みない現場に失望した。そして、師匠のディック・スミスの死後、映画界から足を洗い、現代アートに取り組むことにした。

人間の表情の奥にその人の内面を読み取り、それまでの人生経験を想像し、生身の人間以上にリアルなアートとして、その人物を表出する。それはハリウッドで彼がやってきたことと何ら変わらない。商業主義から芸術の世界への転身などという経済誌が喜びそうな心変わりではないのだ。

 

カズ・ヒロは、今もハリウッドのそばに住んでいるが、本人は映画界に戻るつもりはない。ゲイリー・オールドマンシャーリーズ・セロンといった名優からの指名に応えたのは、例外でしかない。それでも、後輩たちを育てるために、全世界を回ってメイクアップアーチストたちに彼の持つ技術を惜しみなく伝えている。日本国籍を捨てたのは、正しい選択だったと思う。いつの時代も芸術家は絶滅危惧種だが、狭くて浅い日本にいては窒息してしまう。同時代を生きる芸術家の姿に驚き、彼の言葉に前進する力をもらった。

言語化力

考えを言葉にする能力に関しては、私もまあそこそこあると思っている。なので、とてもいいテーマの本だなと思いながら、この手の本には手を伸ばさないことの方が多い。他人に聞くまでもないわ、と妙なところでプライドのようなものが出てしまうのだろう。それでも、この本は糸井重里氏と著者の対談を読んで、面白い人だなと思って読むことにした。

で、それほど目新しいことは書いていないのだが、文章の書き方がうまい。わかっているよ、と思いながらもなるほどと思うところもある。つまり、言語化できているのだ。タイトル通りじゃないか! 

先日、ある有名な経営者の方と話していて、その人は自分の能力は言語化する力だと言われたので、実は私もそうです、と話したところ、それは生い立ちによるものか性格かどっちだと思う、という話になり、私はどちらもそうだと思うと言った。で、私は3人兄弟の末っ子で、上の二人とは6歳以上離れているので、幼いときからずっと、両親と上の二人が親子という関係性を作っていて、私はそれを眺めている、という意識がずっとあったと話すと、その人も同じだ、と言った。その人も3人兄弟の末っ子で、厳しい父上からの問いかけに、何と応えればいいのかを上の兄弟の反応をみながら、つねに探り探り生きてきたので、状況を俯瞰する能力が養われたのだと思うと言われた。なるほど。私も、兄弟げんかというのは、上の二人がけんかすることだと思っていた。なにしろ、二人にとってこっちはガキすぎて、けんかの相手にならなかったのだ。

あらためて、言語化力というのは、もっと意識的に自分の強みとして認識した方がいいのかもしれないと思っている。

言語化力 言葉にできれば人生は変わる

言語化力 言葉にできれば人生は変わる