Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

2020年6月30日にまたここで会おう

この著者は、元マッキンゼーで、投資家で、京大の先生で、若者たちをやたら煽る人だなと思っていて以前にも著作を読んでいた。そして2019年に突然亡くなられたことも知っていた。で、このタイトルの本がでたので、これもうこの日時までに読むしかないではないかと手に取った。

これは8年前の2012年6月30日に東大で行われた講義録だ。参加者は30歳未満限定。2時間、若者たちに檄を飛ばし続けた。彼は若者たちに武器を配りたいという。武器とは「自分で考え自分で決める」ことだ。世の中を変えるのは若者だからといい、若者に期待している。いや若者にしか期待していない。なぜなら、本当の変革は世代交代によって起こり、それには何十年とかかるからだ。天動説から地動説へ科学認識が変わったのも、天動説を主張していた学者たちが死んでいなくなったからだという。

かつて裏方としてカリスマを作り上げ、世の中を変えようとしたがうまくいかなかった。その「カリスマモデル」の失敗から「武器モデル」を進めようと決めた。それには先行事例があり、投資家のジョージ・ソロスが「意見の多様性のない東欧の共産主義国を倒そう」として、いろんなことをしたのだが、唯一成功したのが、コピー機を配ることだったという。民衆は自分の意見や主張を印刷して広く発表する方法を手に入れ、東欧諸国がソ連から独立するのに成功した。それで瀧本さんは、意見をバラまくことには世の中を変える力があると思うようになったという。

この本の激しさは、各章のタイトルを見るだけでわかる。「第一檄 人のふりした猿にはなるな」「第二檄 最重要の学問は「言葉」である」「第三檄 世界を変える「学派」を作れ」「第四檄 交渉は「情報戦」」「第五檄 人生は「3勝97敗」のゲームだ」と続く。厨二病だと自分でも自覚があるようだが、こうした熱さがそのまま一冊の本になったのは近頃はあまりないと思う。日本を本気で憂えた著者の遺志が詰まっている。この本のタイトルは、講演の8年後に再び会おう、という言葉から来ている。

 

映画 日々是好日

ずっと観たかった映画をようやく録画で観た。コロナの、こんな時期に観てよかったと思う。お話はごく普通の、したいことが何かわからない女子大生が、ふとしたことで茶道教室に通うことになるところから始まる。あ、その前に小学生の頃に両親に連れられてフェリーニの「道」を観にいき全然わからなかったよというのがオープニングだ。一緒に教室に通いはじめた仲のよいいとことともにゼロから茶の湯を学んでいく。そのいとこが商社に就職し、自分は就職できずフリーライターになり、そのいとこが結婚して遠くへ行ってしまい、自分は結婚の約束を交わした彼氏に裏切られたりと、いろんなことが彼女の身に降りかかる。とは言っても、それは普通に暮らしていても出会う出来事だ。

淡々と過ぎていく時間の中で、彼女はずっとお茶の教室に通う。最初はなんとなく行っていただけだったのに、すっかり生活の中の習慣になっていたから。あるときから彼女は一人暮らしを始める。それでも土曜日の茶道教室の帰りには実家に寄ることにしている。ある日、父が倒れ、そのまま帰らぬ人になった。喪服のまま、お茶の先生の家に行き、縁側で先生と話をする。お茶の時間と先生の家で過ごす時間が、彼女がやすらぐための時間なのだ。

翌年の初釜の日、門下生の前で先生は言う。「こうして毎年同じことができるとこが幸せなんだなあって」。彼女はここに通うようになって、三度目の犬の絵柄の干支の茶碗と対面する。つまり二十四年通っているのだ。そして彼女は、扁額の「日々是好日」の意味を理解する。四季折々の時間や気候をそれぞれに楽しみながら、何気ない日常の時間を味わうように生きることだと。「世の中にはすぐにわかるものとすぐにわからないものがある。すぐにわからないものは長い時間をかけて少しずつわかってくる」

私も日常が続くということはどれほどありがたいことなのかとなんだか心にしみた。

https://www.nichinichimovie.jp/

雨は五分後にやんで

同人誌というわりにはしっかりとしたハードカバーの短編集で19人が作品を寄せている。小説からエッセイ、漫画とかいろいろだ。小説も歴史を題材にしたものからSFまで、いろんなタイプがあって、共通しているのは「五分」という言葉や要素をどこかにいれてあることだ。

編者でもある浅生鴨さんをはじめ、ネパールを旅した面々が寄稿している。なんだか不思議な本だが、楽しかった。私は時々文芸誌を買うので、いろんな作家の作品がこうして集まっている本は好きだ。新しい作家に出会えるし。今回はほぼ作品を読んだことのない人たちばかりなのでますます面白かった。同人誌の楽しさってこういうことなんだろう。

なかでも、女の人がある日突然、リベットになる話は面白かった。不条理というか、SF的というか、最初の困難な設定を読者に上手に飲み込ませれば、後はディテールを楽しめる。大ぐくりにしてしまえば、村上春樹もこうした構成だし、小説の世界ではよくある。おかしなことをするりと納得させるところが、作家の技量なんだろうと思う。

 

彼らを書く

彼らとは、ザ・ビートルズボブ・ディランエルヴィス・プレスリーのことだ。彼らを映像で捉えたDVDやブルーレイなどを片岡義男が鑑賞し解説する。市販されているものばかりだから誰もが観られる。だが、同じことを読み取れるかというと、まったく足下にも及ばない。英語ができるとか、世代が違うとかの理由ではまったくない、人間に対する観察力の差なのだとしか言うほかない。作家、片岡義男が誰とも違う作家であることをまたも思い知る。そして、それはうれしい体験だ。

一例をあげてみよう。私はこの箇所でいったん読むのをやめ、この文章を読み直した。「To Sing For Youという歌をドノヴァンが歌い始めるとディランはすぐに、Hey, that's a good song man.と言う。このgoodというひと言のなかに、それまでのディランのすべてがある。単にgoodという言葉があるだけで、それを支える根拠はなにもない場合とくらべてみるといい。」「That's a good song.とじつに気軽に言うときの、goodというひと言がその人の歴史として持っている深さを、どこまでも掘っていくなら、自分もいずれは作るgood songのもとになるはずの自分、というオリジナルな源があるはずだ。僕の経験では、good songは三千曲くらいならすぐに体験出来る。一九六五年のボブ・ディランには、good songの蓄積は五千曲はあったのではないか。これだけのgood songを体験し、歌詞とコードを覚え、いつでも人前で歌えるようになる過程のなかに、その人の核のようなものがある、と僕は思う。」p120、121

この三者は、同時代として体験できなかった私は、勉強のようにして、後から聴いたのだが、メロディの美しさ、演奏の素晴らしさでわかった気になっていて、いくつかの歌の歌詞の意味を調べてみたにすぎない。音楽のできばえだけではなく、時代の精神にも触れる機会はなかなかないし、理解できるものでもない。それでも、音楽や映画をなぞる文章を読むのはなかなか楽しい体験だった。

彼らを書く

彼らを書く

  • 作者:片岡 義男
  • 発売日: 2020/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

映画 ちはやふる

3部作を一気に観た。少女漫画が原作で、主人公の女の子が、その幼なじみの男友だち二人と一緒に競技カルタを遊びながら学び、途中で一人の男の子が引っ越ししてしまい、ばらばらになってしまう。それぞれが高校に入り、高校カルタ部として日本一を目指す話だ。主人公役の広瀬すずは、実際に自分の高校三年間にこの三部作を撮ったらしい。去年、百人一首の英訳本を読んで、面白くていろいろと調べていたら、この映画に突き当たり、WOWOWで放送したのを録画していて、ようやくまとめて観たところだ。

競技カルタとはどういうものか、なんとなくわかったし、千年前の和歌が現代にも息づいていることを教えてもらってなかなか楽しかった。第二作「下の句」の中で、「迷ったときはどうしたらいいのか」ということを男の子がもう一人の男の子に問いかけ、それには「楽しかったときのことを思い出せ」と言われる。その子も師匠に教えてもらったのだけれど。三人は、それぞれ壁にぶち当たったときに、無心にカルタを楽しんでいた幼い日のことを思い出す。なんだかそのシーンが胸に刺さった。それで私にとって、それはどんなシーンだろうかと考えた。

それは中学校の野球部にいた頃だなと思った。私は中学校から野球を始めたから、レギュラーになれないと思っていたけど、野球をするのが楽しくて毎朝始業前に校庭で野球をやり、昼休みに野球をやり、夕方は部活で野球をやり、土日はみんなで集まって野球をしていた。あとでレギュラーにはなれたのだが、それよりも野球をする自体が本当に楽しかったなあと思い出した。大人になると、映画の中の高校三年生よりも少しは余分にいろいろなことを抱えてしまって、それほど純粋にはなれないのだが、今日はなんだか、ちよっと救われたような気がした。たぶんいいタイミングで観たからだろう。

http://chihayafuru-movie.com/#/boards/musubi

閑話休題 3色ボールペン

「ここに3色ポールペン落ちていませんでしたか」と隣のテーブルに座っているお客さんに女性が尋ねる。少し前まで、その席に座っていたそうだ。わたしはコーヒーを手に、ちょうど席に着こうとしていた。その人が困っているようなので、念のためにと思って自分のテーブルの脚のあたりに目をやると、なんと黒いボールペンが落ちている。これに違いないと思ってそのペンを手に取って立ち上がり、さっきの女性にこれではありませんかと声をかけた。するとその女性は「私のは3色ボールペンです。これは2色ボールペンですから私のではありません」と叱責するような口調でわたしに言った。わたしは親切心で言っただけなのに、きつい口調で返され驚いた。なんだよ、その言い方は、と思った。こういう方には何を申し上げてもダメだと経験上知っているので、そうでしたかと言って、ペローチェのカウンターのお兄さんに、あそこの席に落ちてましたよと言ってカウンターに置いた。まだまだコロナ感染が気になる時期に、床に落ちていたボールペンを渡された店員さんもかわいそうだよなと思ったが、わたしもひっこみがつかないし、元あった場所に戻すわけにもいかないので、渡してすぐに自分の席にもどった。久しぶりに立ち寄ったカフェでの出来事。家の外に出るといろんなことに出会うものだ。それにしてもボールペンがやたら落ちているカフェだな。

こころと脳の対話

「そこをわきまえていないと、そういう(精神)分析の話をしてみんなを喜ばせているうちに、そういう気になってくるんです。だから怖いのは、カウンセラーで、講演が上手になる人はみんなだめになります」P196

精神分析をしていると、犯人像などについてコメントを求められることがあるが、河合先生はそれを全部断るのだという。何かのデータや数字をもとに人をすぐに判断しようとするのは世の中の風潮だが、河合先生は、人間はそうしたことで判断できないと思っているからだ。相手を感心させる分析はいくらでもできるが、それをしないのは、人間を分かった気になってしまうからだという。

では、ユング派の河合先生は、カウンセリングでは何をするのか。中心をはずさずに人と接する、のだという。その人をとにかく正面から受け止め、話を聞く。なにも反論せずに相手に話させる。そうすると相手が自分で考え、変わっていくのだという。そして普通の話をずっと聞いているだけなのに、とても疲れることがあるという。そういうとき、その人の病状は深い。河合先生は全身全霊で相手を受け止めることだけに集中して話を聞く。疲れてしまうのは、相手との関係性を築くために苦労するからなのだ。

河合先生がタクシーに乗ると、運転手さんが身の上話を始めてしまう。たぶん、うなずき方だったり、間のとり方が、相手に話をさせたくなるのだろう。本当の達人だ。

脳科学を研究する茂木さんは「クオリア」という感性的なことに感心が向かっている。河合先生は、自分がしていることは近代科学とは違うと言い切る。「関係性」と「生命現象」についての研究だという。普遍的なものを扱うと割り切ったのが科学だ。生命現象は科学の手法では定義できないことがたくさんある。可能性について考えようというのが、ユング心理学だという。

「いまいくらグローバリゼーションといっても、文化まで普遍的に一元化するわけじゃないでしょう。ほかが普遍化するだけ、文化はむしろ多様化するというのと、僕は似ているように思っているンですけれどね」P192

新型コロナの時代と共存しなければならなくなったいま、心に響く言葉だ。

こころと脳の対話 (新潮文庫)

こころと脳の対話 (新潮文庫)