Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

業界破壊企業

サブタイトルは「第二のGAFAを狙う革新者たち」。業界にイノベーションを起こした、あるいは起こしつつある新興企業を紹介している。プラットフォームによるイノベーション、ビジネスモデルによるイノベーション、テクノロジーによるイノベーション、3つの切り口で分類している。私はこの本で紹介されているDuolingoというアプリでフランス語の勉強をしているのだが、仕組みが面白い。ユーザーは英語で書かれた文章をフランス語にしたり、フランス語で書かれた文章を英語にしたりしながら学習する。一見普通の語学学習アプリなのだが、実はこれ、翻訳会社が仕事しとして引き受けた文章をユーザーが翻訳しているのだという。もちろん、初学者の翻訳を信用するのは危険だが、世界中のユーザーの答えを処理して最大公約数を正答としている。さらに、誤答と判定された際は、それは違うとクレームする機能もある。インターネットを介して世界中から集めた翻訳データをAIの機械学習の手法で解析する。凄いと思う。これは無料で使えるのだが、有料会員になれば広告もなくなり、別のコンテンツも楽しめるそうだ。

この本は新進気鋭の企業の紹介だけにとどまらず、「ハッピーイノベーション」を起こそうというところがユニークだ。どれだけお金を稼げるか、という視点ではなく、自分を含めて人が幸せになれるビジネスを小さく立ち上げて育てていこうという考えだ。それを実践するために、著者は私塾やいくつかの教育機関で教えている。いくつもの事業を立ち上げ、失敗もし、それでも起業し続けた著者が幸せを起点にした起業をすすめてくれる。 

業界破壊企業 第二のGAFAを狙う革新者たち (光文社新書)
 

 

コミックス作家 川村リリカ

片岡義男の新作。主人公は20代の女性のコミックス作家だ。漫画家とは違って、

コミックスに文章を組み合わせてストーリーを綴るスタイルだ。

自画像に近い裸の女性の絵を描くのが得意で、とてもエロいのだという。やはり20代の女性編集者は彼女の描く作品を全面的に支持している。

 

この二人はともに男の言葉で会話する。電話をかけて「俺だよ」と言い、「なんだお前か」と返す。他の人に対しては、いたって普通の言葉を使うので、この二人だけが共有するコミュニケーションの言葉なのだろう。

最近は、女性のアイドルグループやシンガーソングライターなども、僕という言い方を自己を表現する言葉として歌っている。英語なら「I」と言えばいい自分の主語が、僕、俺、私、あたしなどたくさんある。日本語に翻訳するときにまず悩まなくてはならないことだ。読み始めてすぐは、かなり違和感があった。今までも片岡義男の作品には、男言葉を使う女性が登場することはあったが、ずっと、俺とお前の会話が続くと気にならなくなった。二人の嗜好が渋好みだったり、小説のアイデアを語る論理的な展開を説明する場面などが続くからだろう。かといって、男言葉が論理的で、女言葉がそうでないということではない。片岡義男が描こうとする世界観や人と人の関係性を適切に表す日本語を探した結果が、この会話に至ったのではないだろうか。

この本では、主人公のリリカがこれから書こうとするアイデアを語る描写が多い。小説の中に別の小説がある。ふとした日常の風景から物語を発想する作家の柔軟な発想が楽しい。そして、日常の中に赤いハイヒール以外は裸で登場する女性という設定が多い。私はこれを安易なエロネタだとは思わない。日常の中に妄想を持ち込んでストーリーを成立させようとする仕掛けなのだと思う。若い女性作家が自分に似せた裸の女性をコミックで描く。実際には決してあり得ないのだけれど、こうした非日常がコミックスによって実際の形を得るならば、その他の物語を構成する要素はすんなりと読めてしまう。ファンタジー小説も、魔女や不思議な力が存在すると思って読み進めていくと、たくさんの人間の真実が描かれている。だからこれは、ファンタジーなのだ。裸の挿絵はもちろんでてこない。読者が自由に妄想しながら読む小説だ。

それでも読後にはいろいろな思いが残る。男言葉を使う登場人物の会話を読んだことによって、日本人の思考は男言葉と女言葉によって規定されていたんだと改めて気づく。小説とは読者が頭の中で想像することで成立するものなのだと、いまさらながらに気がつく。「こんな女はどこにもいないよ」というのはたやすい。かつてブームになったときも、片岡義男を批判する声は、そうしたものだった。この作家の小説観はまったく変わっていない。最近、若い人が片岡義男を読むことが増えているらしい。時代が30年遅れで追いついたのだろうか。

コミックス作家 川村リリカ

コミックス作家 川村リリカ

 

 

テレビ 仁

おっと、このブログを一ヵ月も書いてなかったことに自分でも驚いた。この自粛ムードの中で本を読むよりもこつこつと翻訳と外出しなくていい仕事を続けていた結果だ。

テレビドラマの仁の再放送をまとめて観た。三週連続で土曜と日曜の2時から5時まで連続放送してくれたのでじっくりとそして初めて観た。一回の放送の三時間に、以前の放送の4、5話分を編集しているために実に内容の濃いドラマになった。

現代の日本の外科医が幕末の日本へタイムスリップする。わずかに携行した手術道具と現代医学の知識を元に、必要な道具と薬を手作りし、当時の人々の命を救う。そして自分は歴史を変えてしまうのではないかと葛藤しながらも医者として眼の前にいるけが人や病人の命を助けようと努力する。そしてとうとう自分がいた時代に戻ることになるのだが、以前とは少し違っていることに気づく。それは自分が歴史を変えたせいなのか、わずかにバージョンの異なるパラレルワールドに来てしまったのか。タイムスリップという大きなアイデアなのだが、詳細な外科手術の演出や観ているものを納得させる辻褄の合わせ方が上手く、よくできたドラマだ。

途中、自分が歴史を変えてしまった暗喩として写真に一緒に写っていた恋人の姿が薄くなり、しまいにはその写真までが消えてしまう。分かりやすいギミックである。恋人とそっくりの女性に出会い、その人の運命を変えてしまったからなのだろうか。そしてもう一枚の写真がある。坂本龍馬と一緒に写った写真だ。この写真が出てくる物語の後半では、視聴者は歴史の中からその医師が消えてしまうことが推測できる。あの有名な龍馬がひとりで写っていた写真の隣に、かの医者が一緒に写っているのだから。確かに龍馬の写真は、隣に誰かいたような気配を感じさせるのだ。この写真が仁のドラマを発想する手がかりになったのかもしれない。龍馬の隣に(本当は一緒に写って)いたはずの人物は誰だろうと考えたのでは。そして、その人物は未来からやって来て、成すべきことをして、また未来に戻っていったのではと。そもそも、坂本龍馬という人物もまた、幕末のわずかな期間に獅子奮迅の活躍をし、この世から消えていった。彼もまた、未来から日本を変革するためにやって来たのかもしれない。

この物語の第一話がころりという伝染病にかかった人々を治すというストーリーだったせいもあって、新型コロナで活動自粛中の心に深くしみいったのかもしれない。とてもいいドラマだった。大沢たかお綾瀬はるかがとても良かった。恋人役の中谷美紀もはまり役だった。

ザリガニの鳴くところ

タイトルに惹かれたのと、わたしのまわりでとても評判がよかったので読んでみた。約500ページ。読みごたえのある本でとても面白かった。

ノースカロライナ州の湿地で村の青年の死体が発見される。人々は「湿地の少女」と呼ばれているカイアを疑う。カイアは幼い頃から家族に見放され、ただ一人、湿地の家で生き抜いてきた。退役軍人で家族に暴力を振るう父に耐えかねて、子供たちは次々と家を出て行き、カイアの母も出て行ってしまう。そして父までも。カイアは魚や貝を捕ってはお金に換え、一人で生きていく。手をさしのべてくれたのは雑貨屋の黒人店主夫妻だけ。孤独に耐えながら、自分で自分を作り上げていく。

物語はカイアの生い立ちと事件の調査から裁判までが交互に語られる。殺人事件を追うミステリー小説であり、カイアの成長譚でもある。1950年代から60年代にかけてのアメリカ南部の暗さが物語の通奏低音となっている。「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれる最下層の貧乏白人だったカイアの一家は、貧困と偏見の中で生きてきた。それとは対照的に、さまざまな生物が棲む湿地の自然が美しく描かれる。豊かな自然の中で知恵を使い、自活しながら成長する一人の女性。自然を観察し、言葉を学んで詩を作る。彼女は自分だけの素晴らしい世界を作り上げていく。野生動物学者である著者の、自然についての描写力がこの物語をスケールの大きなものにしている。

カイアは最後まで自分の心の奥にあるものを誰にも明かさなかった。孤独な人生。何にも流されずに築き上げた自分だけの王国。豊かな暮らしとはなんだろう。言葉の軽さと無言の重さ。適切な言葉を学ぶことの重要性と詩の可能性。読後にさまざまな想いがいまも頭の中を巡っている。

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

 

 

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか

以前このブログでも書いた本なのだが、再度読み返してみた。一度読んだときはとても真似できそうにないコトばかりだと思ったのだが、今回は心に残る言葉が多かった。「すべての仕事は必ずやり直しになる」「その問題とこの問題は独立している」「アイデアをなるべく早く目に見える形にすると、フィードバックを早く得られる」「いつも全力を出していると、真の実力を発揮できなくなる」「重要なのは楽しくて楽しくてしょうがないかどうかの、一点だけ」「自分が幸せになれる行動をしないと、人は幸せにはなれない」

今ならこの本に書かれていることのエッセンスは取り入れられると思う。

 

ドラえもん0巻

朝日新聞三谷幸喜のコラムを読んで、ドラえもんの単行本を買う。これは、「よいこ」「幼稚園」「小学一年生」「小学二年生」「小学三年生」「小学四年生」それぞれの、ドラえもんの第1回がまとめて掲載されている。ドラえもんのび太の家にやって来る回なので、基本は同じ話なのだが、対象年齢によって描きわけてある。絵のタッチや台詞そのものと漢字の量などが違う。これはなかなかできる芸当ではない。漫画家や作家は、本来自分の世界観を最も表現できる作品を書きあげるのではないだろうか。もちろん、想定とする読者がいるにせよ、自分の考えを表現することが仕事というか作品作りなのではないか。それなのにドラえもんの作者は、媒体の想定年齢に合わせて描きわける。子供たち誰もが読みたい作品でありながら、読者は自分の学年にあった雑誌しか見ないわけだから、こうなるのだろうが、凄い努力だなと感心した。今では雑誌自体がなくなってしまったが。

三谷幸喜が言及していたのは、巻末に収められた、ドラえもんのアイデアが誕生するまでの苦悶の日々のマンガだ。締め切りぎりぎりまでアイデアが浮かばない。良いアイデアが思いつかずあせる。場所を変えて考える。横になって考えようとすると、そのまま寝てしまう。はっと起きてはまたあせる。そして最後の最後にひらめく。たしかにこれは、アイデアを考えなければならない人は誰もが経験したことだ。広告の世界でも「白紙で出た(新聞)原稿はない」などと言われたが、それでも綱渡りの日々を過ごすのはキツかった。

考えてみたら、ドラえもんの単行本を買ったのは初めてだ。0巻という本が、本棚にあるのは悪くない。

ドラえもん 0巻 (0巻) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん 0巻 (0巻) (てんとう虫コミックス)

 

 

ナルト

ようやく全72巻を読み終える。スケールの大きい物語だった。結論は垣間見えていたから、最終回はそれほど驚きはない。途中でなんども、よくぞここまで引っ張ったな、と感じる回があった。それでも、最後まで読み通し、なんだか達成感を感じる。久しぶりにこんなに長いマンガを一気に読んだ。連載中は人気マンガを終わらせないために、ただ引き延ばすのではなく、どんどん物語を長く大きくしていったのだろうと思うと漫画家は、そして担当の編集者はすごいと感心する。

忍者が外国人に人気だという。そして外国人に有名な忍者は「NARUTO」だというので、アマゾンの古書でコミック72巻を一気に買ったのだった。ほぼ一ヵ月かかって読み終えた。最初は忍者修行の話が中心だったが、超能力者の闘いになり、化身の獣うしの闘いになり、死者が“黄泉帰り”、巻が進むにつれ、忍者らしさはほぼなくなっていく。主人公は大勢の師匠と友人に支えられ、人を信じることを学び、成長していく。現在の自分につながる忍者の歴史については、蘇った祖先との直接対話によって学んでいく。成長譚と友情、人間に対する信頼の超大作で15年間連載していたという。作者はこれほどの構想をマンガを連載しながら作り上げていったのだと思う。最初はここまで考えていなかったはずだ。それでも、話のつじつまをあわせながら、展開していく力はすばらしい。

人気だった理由はよくわかる。ポジティブな主人公。それに立ち向かう極悪人がつぎつぎと現れる。巨悪の組織もでてくる。相手は強い。絶体絶命に何度も追い込まれる。仲間が死に、仲間が裏切る。綿々とつながる歴史。そして、死者との対話。かつてウラトラマンのドラマに、兄弟や親まで登場し、物語は大きく方向転換をした。まるでその再現のように、かっての共同体のリーダーたちがそろい踏みで蘇り、主人公を助ける。わくわくしないわけがない演出だ。物語を作るときの参考になりそうだ。

NARUTO-ナルト-  コミック 全72巻完結セット (ジャンプコミックス)

NARUTO-ナルト- コミック 全72巻完結セット (ジャンプコミックス)