Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

ぼくは翻訳についてこう考えています

柴田元幸氏が翻訳について書いたこと、語ったことを100点抜粋した本。アフォリズム集のようでもある。なるほどとうなずき、そうすればいいのかとメモし、深いなあとかみしめる。この本もまた、時々読み返す必要のある本だ。

論考の中に、間違っている英語を訳すには、英語と同じくらい間違った翻訳をすることがいい、と言っている。目指すところは理解できるが、どうしても翻訳が間違っているようにしか読者には思えないだろうから、難しいところだ。私も以前、(生意気にも)ろくでもない商品を広告するときは、ろくでもないことが伝わるようにすべきではないかと考えていた。詐欺まがい商品の販売活動に加担するようで嫌だったのだ。でも、そうした商品を売りたい会社はなんでも値切る傾向にあるため、話題になるほどの広告出稿はできず、私の心配は杞憂に終わったのだ。

また、別の論考では16歳の少年のしゃべり方を訳すなら、うまい言い方にはならないはずだとしている。英語を読むのに苦労している身にとっては、なんとも文学的な悩みをされていて、うらやましい。

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

 

なんで僕に聞くんだろう。

写真家の幡野広志さんのもとに届く人生相談に、幡野さんが答えていく本だ。言葉の切れ味がすばらしい。私も文章を書くときは、できるだけ誤解が少なくなるような言葉を選んで書いているつもりだが、この本の文章の切れ味は恐ろしいほどだ。私の文章はナイフのように鋭くありたいと思っているときに、幡野さんの文章は天才外科医のメスのように鋭い。相談してくる相手の文章を隅々まで読み取り、相手の本音を鋭く切り開く。あまりの鋭い切れ味に、相談してきた人は、自分がばらばらにされているのに痛みも感じないかもしれない。あまりにスムースに、メスが動いたからだ。それは、相手を傷つけるための言葉ではなく、相手を理解し、相手のためになることをまっすぐに伝えるからだ。写真家だから観察力が鋭い、とかいう短絡的な発想を軽々と超えて、この人の考えの深さに驚嘆する。

本当に自分の頭を使って、とことん考え抜いているのだ。必ず答えを出すと覚悟した人の言葉だ。借り物ではない、自分の中から出てきた言葉だ。それゆえに重いこともあるが、間違いなく的を外さずに肝心のポイントに投げ込まれる。相談の内容は、私には関わりないなと思うようなものが多いが、その言葉の強さ、正確さに、何度もうなってしまう。てきとーな相づちばかりのワイドショウの司会者や、賢く見せるために必死なビジネスマンの話を聞くのに疲れてしまっていた昨今に、言葉を使うことの真剣さを見せてもらった。

「悩む人というのは悩んでいるのではない。不安なだけだ」

「言葉で人の歩みを止めることも、背中を押すこともできるのならば、できるかぎりぼくは背中を押す人でありたい」

これはきれいごとではない。覚悟を決めた人の真剣な言葉だ。

なんで僕に聞くんだろう。

なんで僕に聞くんだろう。

 

 

息子たちよ

日常生活の合間にさまざまなことを思い浮かべながら、そういえばあの本にはこんなことがあったと話してくれる。あるいはこの本で描かれている風景は、自分にとってはこういう意味を持つ、と教えてくれる。書評家の記憶力というのはすごいものだ。ご本人とお話したときは、出来事の記憶についてはディテールのあやしいところもたまにあったけれど、本についての記憶は本当にすごい。

普段は会社に泊まり込んで仕事をしていて、家に帰るのは日曜日に競馬が終わった後、夜になってからだ。そして月曜の朝に会社に行くと、次に家に帰ってくるのはまた次の日曜日の夜。そんな生活を何十年と続けながら、二人の息子はすくすくと、もしかしたら父親を反面教師として成長した。そんな父親が、息子に会わずにいた間、本を読みながら何を考えていたのかを書いた本だ。そんな想いがタイトルになった。

私は日本人作家の本はあまり読まないのだが、この本で紹介されたなかには読んで見たいと思う本がたくさんあった。でもこれで日本人作家の本を読み出すと本当に時間がなくなってしまうなあ。そして、この本で紹介されるのは、概要ではなく、あるシーンについてだけだったり、家族との関係だけなのだ。本全体の出来映えとはすこし距離を置いて、そんな読み方もできるのだなあと感心した。たくさんの本を読んで来たからこそできるのだろうけれど。

本好きで競馬好きのおもしろいおじさんは健在だ。

息子たちよ

息子たちよ

  • 作者:北上 次郎
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2020/01/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

カササギ殺人事件

昨年、さまざまな賞を獲ったミステリー小説だ。あまりに人気だったため、古書に出るのもすぐだろうと思って買わずにいた。その代わり、早々と図書館に貸し出しリクエストを出していたのだが、根強い人気が続いているらしく、上巻が届いたのがつい最近だった。実は、下巻の順番は昨年の秋に回ってきたのだが、下巻から読むわけにはいかず、パスしておいた。それで、とりあえず上巻を読んで面白かったら、下巻を買おうと思って読み始めた。

上巻は懐かしい感じがするなあと思いながら、本格謎解きミステリーが進展する。1950年代の英国を舞台にしており、スマホにもAIにも邪魔されず、トリックやアリバイといった要素が重要な役割を占める。そして最後の頁に探偵は犯人が分かった、と言って終わりになる。小説の半分が終わったところで、探偵の謎解きが始まるのか!? 下巻まるまる探偵の説明なのか!? これでは、下巻を読まずにいられないではないか。すぐに下巻を買って、読み続ける。

予想に反して、小説の続きが始まらないのだ。なんだこれはと思いながら、とにかく急いで読み進む。そしてこの小説の世界にすっかり取り込まれ、最後まで一気に読んだ。たしかに、凄い小説だ。たいした作家だ。賞を獲ったのも納得。昨年中に上巻から買って読んでもよかった。

本格謎解きミステリーというのは、もう新機軸はないのかと思っていたのだが、こんな展開の仕方があったのだ。ミステリーの世界はまだまだ広くて奥深い。

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

 

 

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

 

 

ただの眠りを

1984年、メキシコ。72歳になったフィリップ・マーロウは家政婦と拾ってきた野良犬と一緒に住んでいた。探偵の看板を外したわけではないが、引退に等しい暮らしだった。そんなマーロウに、生命保険会社から仕事の依頼が来る。事故死した男の保険金を払い込む前に、事実関係を洗って欲しいという依頼だった。

マーロウは(もちろん)仕事を引き受ける。そして、以前のように、自ら危ない橋を渡り、待ち受ける危険の渦中へ杖をつきながら乗り込んでいく。その杖は、座頭市の映画にインスピレーションを得たという仕込み杖。日本で刀鍛冶に作ってもらったという。

フィリップ・マーロウのストーリーを、チャンドラー亡き後に何人かの作家が書いたが、どれもいまひとつだと感じていた。だが、この小説の中には、たしかにマーロウがいた。犯罪のにおいを嗅ぎつけ、気になる女の後を追う。理性よりも好奇心にまかせて進む無鉄砲な行動。少なめになったとは言え、相変わらず気の利いた言葉を吐く。拳銃の代わりに仕込み杖を相棒に、一人で悪党どもに立ち向かう。

欧米の小説によくあるように、神の視座によって、ときどき物語を俯瞰することなく、主人公の主観カメラを通して読者は旅をすることになる。ハードボイルド小説の楽しさはこれだったなと、久しぶりに実感した。それはわたしたちの人生の旅とよく似ている。

「あなたはあなたで自分の宗教を持つ権利がある」事件の中心にいるドロレスがマーロウにそう言う。これこそ、現代に失われた考えではないか。この一文を読んでハードボイルド小説を読みあさった学生時代にタイムスリップした。そして二人の会話をもう一つ。

「金がすべてじゃないなどとは誰も言ってないよ」「でも、あなたはそのことを信じてない。プライドなんてものを持っている。わたしもドナルドもそんなよけいなものは持ってない。幸運なことに」

物語の最後、メキシコの砂漠でマーロウは息子を亡くした老人に会いに行く。そして砂塵の舞う景色のなかで、黙ったままのふたり。すばらしいラストシーンだ。

・・・私たちはともに無言のまま長いことそこに坐っていた。たぶんそのときを壊したくなくて、言わずにおかれたことによけいなことばを加えたくなくて。

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)

 

 

テレビ 100分deナショナリズム

この番組は正月の3日に放送されたものを録画しておいて、ようやく観た。100分de名著の特別編だ。

ナショナリズムと聞いて最初に連想するのは、ナチ、戦争、右翼など。自分の国が一番だとまっすぐに信じられるのは凄いなあと思う。どうして自分の国というまとまりが大切で、他国に侵略したり、他国民を殺してもいいと思えるのだろう。ヘイトも同じで、自分の国よりも他の国が劣っていると信じていて、罵声を浴びせたり、暴力を振るってもいいと思えるのだろう。ずっと疑問だった。

一方で、オリンピックとかワールドカップとかになると、日本頑張れと思っている自分に気がつく。あれは、選手が凄いのであって、その人がたまたま同じ国の人だというだけなのに、なぜか日本頑張れと思ってしまう。日本以外の国の人もそうなのだと思う。

ナショナリズムとは想像の中にしかない、と言われてなるほどと思った。たしかに、1億2千万の国民のほとんどとは、一生会うことがない。概念でしかない。

パトリオティズムとも違う。たとえば、政府の利害(ナショナリズム)と沖縄の利害(愛郷心パトリオティズム)が対立することがある。

ナショナリズム選民思想でもある。同じ船に乗る人たちの連帯感。そして、選ばれなかった人、棄民がつねに存在する。最近のヘイトは、自分が国に選ばれているかどうかが心配で、他者を棄民だと位置づけることで結果として自分は選ばれたのだと思い込みたいがゆえの行動だという。

超国家主義というのもある。ナショナリズムを超えた先にあるものは、すべてが渾然と一体化することで、救いが得られると考えること。他者に認められないことがきっかけで、対立ではなく、すべてが1つになれば、他者はいなくなるという、対立軸自体を否定してしまう発想。競争の否定と同じなのかもしれない。イスラム原理主義にも近いと紹介されていた。

この前のラグビー・ワールドカップはにわかラグビーファンとして、とても楽しんだ。日本チームは世界の強豪をいくつも破り、その強さを世界に知らしめた。いろんな国籍のメンバーが、日本チームとしてまとまっていたことが、素直に彼らの活躍を喜べた大きな理由だったなと、わたしは思った。相撲の世界では、つねに日本人の横綱待望論がある。国技といつも言うのも気になる。今回のラグビー日本代表は、それと対局で、人間の多様性を生かしながら、1つにまとまって闘った。そんな素晴らしいチームが、日本のチームでもあったことは本当に素晴らしかった。全員日本人でなくて心地よかった。日本万歳とは叫ぶことができなかったからだ。日本チームありがとう、とは言えた。

ナショナリズムとの対比で、キリスト教の話が出た。ナショナリズムは同じ船に乗る人たちの共同幻想であり、限界がある。しかし、キリスト教徒は、世界中をキリスト教の思想に染めようとしていて、限界がない、という対比の話があった。それは他の宗教も同じなんだろうけれど、海を越えて、キリスト教を広めるという宣教師の原動力はそういうことなのだと思った。

 

献灯使

ドイツ在住でドイツ語で小説を書いている多和田葉子さんの小説。この本は日本語で書かれ、英訳版が広く読まれているという。義郎という老人が、無名という名の小学生と二人で仮設住宅で暮らす。この二人はおじいさんと孫という関係ではない。曾おじいさんと曾孫なのだ。舞台は未来の(すぐ先かもしれない)日本。大災厄に見舞われた後、日本は鎖国政策をとることにした。外来語は禁止され、鎖国以降に育った子供たちはそもそも外国語(外来語)を知らない。老人たちはみな、不死であるかのように元気で動き回る。義郎は107歳になる。子供たちはみな、ひ弱で食事をすることも歩くこともままならない。無名は15歳の時には車椅子を使うようになる。無名は献灯使に選ばれるのだが・・・。

多和田さんは東日本大震災のあと、福島に何度か訪れた。そのときに見た日本は「私が長年ベルリンから見て感じていた姿だった」という。元気な年寄りと繊細なこども。たしかに、この小説で描かれる人々は、フィクションとは言え、現代の日本の老人の姿のどこか一部を引っ張ったり、こどもたちの一面を拡大しただけといえなくもない。現代小説の中に、現実と似た風景を見ることはよくあることだが、近未来SFとも、ディストピアともいえる小説の中に、今の日本の風景のかけらが散乱して乱反射している。

自分自身も、どこかおかしい、このままじゃいけない、と思いながら年月を過ごしてどのくらい経っただろう。政府御用達メディアばかりになっている今、小説の力、役割をあらためて考えた。

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)