Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

ただの眠りを

1984年、メキシコ。72歳になったフィリップ・マーロウは家政婦と拾ってきた野良犬と一緒に住んでいた。探偵の看板を外したわけではないが、引退に等しい暮らしだった。そんなマーロウに、生命保険会社から仕事の依頼が来る。事故死した男の保険金を払い込む前に、事実関係を洗って欲しいという依頼だった。

マーロウは(もちろん)仕事を引き受ける。そして、以前のように、自ら危ない橋を渡り、待ち受ける危険の渦中へ杖をつきながら乗り込んでいく。その杖は、座頭市の映画にインスピレーションを得たという仕込み杖。日本で刀鍛冶に作ってもらったという。

フィリップ・マーロウのストーリーを、チャンドラー亡き後に何人かの作家が書いたが、どれもいまひとつだと感じていた。だが、この小説の中には、たしかにマーロウがいた。犯罪のにおいを嗅ぎつけ、気になる女の後を追う。理性よりも好奇心にまかせて進む無鉄砲な行動。少なめになったとは言え、相変わらず気の利いた言葉を吐く。拳銃の代わりに仕込み杖を相棒に、一人で悪党どもに立ち向かう。

欧米の小説によくあるように、神の視座によって、ときどき物語を俯瞰することなく、主人公の主観カメラを通して読者は旅をすることになる。ハードボイルド小説の楽しさはこれだったなと、久しぶりに実感した。それはわたしたちの人生の旅とよく似ている。

「あなたはあなたで自分の宗教を持つ権利がある」事件の中心にいるドロレスがマーロウにそう言う。これこそ、現代に失われた考えではないか。この一文を読んでハードボイルド小説を読みあさった学生時代にタイムスリップした。そして二人の会話をもう一つ。

「金がすべてじゃないなどとは誰も言ってないよ」「でも、あなたはそのことを信じてない。プライドなんてものを持っている。わたしもドナルドもそんなよけいなものは持ってない。幸運なことに」

物語の最後、メキシコの砂漠でマーロウは息子を亡くした老人に会いに行く。そして砂塵の舞う景色のなかで、黙ったままのふたり。すばらしいラストシーンだ。

・・・私たちはともに無言のまま長いことそこに坐っていた。たぶんそのときを壊したくなくて、言わずにおかれたことによけいなことばを加えたくなくて。

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)