Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

旅猫リポート

ふだんは手にしない作家だが、読書会の課題図書なので読んでみた。なかなかのページターナーで、あっという間に読み終えた。とてもよかった。主人公はやさしい青年で、ある事情があって飼い猫を友人に引き取ってもらうため、車に猫を乗せて会いに行く。その友人は幼なじみで、久しぶりの再会だ。旧交を温め合う二人だが、猫をひきとってもらうことは出来ないと判断し、また別の友達の街へと猫と一緒にドライブしていく。そしてまた、猫は引き取ってもらえないとわかり、また次の友人のもとへ。その課程で、主人公の生い立ちがしだいに明らかになり、猫を預けなければならない事情もわかってくる。

猫が語る部分があるのだが、そういうことを考えているかもなあと思わせる。そうあってほしい、と人間が思っているだけかもしれないが、動物を飼っている人なら共感すると思う内容だ。後半にはいるころには、すっかり主人公にも猫にも共感してしまった。そして悪人の出てこない小説だ。私にとって新鮮な読書体験だった。

 

旅猫リポート (講談社文庫)

旅猫リポート (講談社文庫)

 

 

幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと

数多くの死を見つめてきた若い外科医が、死と向き合うことについて真摯に、素直に書いた本。医者は人間の死を、生と死の境をたくさん見てきている。なのに、医者が死について語ることはあまりないように思う。縁起でもない、と言われて封印されてしまうのだろうし、死とは何かという人間の根源を考え始めたら、手術ができなくなるかもしれない。それでも、この本の著者のように、医者はみな、死についての自分の考えを持っているにちがいない。

死は突然やってくる。予定通りに死ねる人はいない。もっと考えていいことなのに、考える機会はあまりない。身内や友人や飼い犬が死んだとき、さまざまな思いが心をよぎるが、そのまま自分の死を考えることにはつながっていない。死という事象についてゆっくりと考えるのは決して悪いことではないはずだ。しかし、日本は死の影を忌み嫌う。表通りをピカピカに磨いて、死を思わせるものを出来るだけ排除する。かつては大家族で暮らしていたから、子供のころに祖父母などの死を体験できたが、核家族になり、親戚づきあいも無くなってくると、死を身近にかんじるのは、大人になってからで、滅多にないことのように感じてしまう。

この本では、ある日突然、死を宣告される現代人は大きなショックを受けることになる。それは「自分の」死について考えたことがないからだという。死を考えることで幸せに死ぬこと、そして幸せに生きることにつなげるべきだという。そうかもしれない。そして「いつ死んでも後悔するように生きる」と言う。全力で生きていれば、必ずこころざし半ばで死ぬことになるということだ。とても納得できる。自分の死について考えることは、自分の生き方について考えることであり、自分の頭を使って生きろということだ。みんながそうだから、というのをやめることだ。

 

 

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

私にとってグレイトフル・デッドとえば、リーダーだったジュリー・ガルシアが真っ先に思い浮かぶ。片岡義男の本を読んで、彼が本を書いているのを知り、すぐに読んだ。哲学的な内容で、示唆に富んでいたが、大地からエネルギーをもらうという言葉は当時は上手く理解出来なかった。今なら、もう少し理解できるように思う。

この本は、タイトルの通りのとてもいい本だ。「グレイトフル・デッド」と「マーケティング」という言葉は縁遠いように聞こえるから、何か違う事を示唆する内容なのかと思うが、それが違っていた。ファンに対する彼らの態度や施策は、いわゆる一般のマーケティングとは違っている。たとえば、彼らは活動の初期から、ファンたちがコンサート会場で録音をしているのを知り、営利目的でない限りは全面的に録音することを認め、それどころか、録音機材を置く場所まで設けた。その結果、ファンたちは自分が録音したテープを友人に聞かせ、また互いに自分が録音したテープを交換しあうことで、ファンを増やし、絆を深め合っている。コンサート会場では録音禁止ということは、ミュージシャンにとっては当たり前のことになっているが、グレイトフル・デッドはそうしなかった。ファンを信じ、ファンに喜んでもらうことをするという態度を常にとり続けてきた。その結果、彼らのレコードやCDは売れなくなったのだろうか? いや、公式な音源も売れたのだ。ファンが録音したものは、口コミや宣伝のような役割を果たし、バンドの音楽が好きになったものは、高音質な公式音源も聞きたくなったからだ。これは、自分でもよく分かる。一時、F1レースを観るために世界各国を回っていたが、自分でも写真を撮ったが、プロのカメラマンが撮った写真が載る雑誌や書籍はしっかり買った。同じ写真でも、その役割が違うことは分かっていた。

それでも、ほとんどのミュージシャンはあいかわらず、録音禁止という方針を変えるつもりはない。また、コンサートチケットも、最前席はインターネットやチケットガイドでは買えない。良い席が欲しければ、郵便為替で、決められた住所に代金を郵送すれば、常連客でなくても、いい席が取れる。ファンを信じ、一緒に楽しもうという方針が一貫しているのだ。

マーケティングは、より最新の動向を知っている者が得をするような印象があるが、そうではない。自分たちが提供するものの価値を知り、どんなことをすればお客さんが喜ぶかを学んで、自らの道を突き進むことが重要なのだとこの本は教えてくれる。

 

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

 

 

映画 女王陛下のお気に入り

18世紀はじめ、アン王女時代のイギリス。王女は側近サラの意のままに操られていた。ある日、没落した貴族の娘アビゲイルが、いとこのサラを訪ねて王宮へ。彼女は下働きの職にありつく。辛い仕事からなんとか脱しようと、目先の利くアビゲイルは、王女の足の痛みを癒やす薬草を摘んできて、それが効いたことから、サラ付きの侍女に昇格。そしてサラと王女との関係を知り、甘い言葉と手練手管で王女のお気に入りになっていく。

アビゲイルののし上がり方がえげつないが、王家のような閉ざされた社会では権力者に気に入られることが全てなわけで、上の地位に就くための戦略としては正しい。古代日本の天皇や貴族が国政を担っていた時代にも、同じようなことがあったのだと思わせる。またライバルを蹴落とすことでのし上がるやり方は、外資の会社もある意味同じだ。

高い地位から落ちていくサラは、被害者のように見えてくるのだが、ふと、彼女が現在の地位を確固たるものにするまでに同じようなことをしてきたのかもと思わせる。因果応報なのかもしれないと。世の中のことを直接見聞きする機会がないと言う点においては、女王はかわいそうだと思う。今の時代、王室の人々はどのくらい自由に情報を得ているのだろうか。

この映画は照明を使わずに自然光と蝋燭だけで撮影したことで、制作費が抑えられ、その当時の空気感がとてもよく表現されていたように思う。クローズアップショットが多用されていたのは、引きの構図に耐えられるほどの光量がなかったことも理由の一つだろう。上手な役者の演技に支えられ、緊張感のある映画になった。終わり方が唐突な気もしたが、多少なりとも波風が立ったとしても、王宮の日々は延々と続いていく、という印象が残ったので、それは監督の思惑通りということなのだろう。

映画『女王陛下のお気に入り』公式サイト | 大ヒット上映中

浮雲

林芙美子の昭和24年の作品。戦後まもない頃だ。ゆき子と富田の、戦中から戦後にかけての愛憎の物語。今読むと不思議な感覚になる。時代を反映しているのだろう。敗戦後の貧困の中での自暴自棄な感じと、妄想のような希望が、安酒の酔いの中で同居している。これもまた戦争小説なのかもしれない。読んで楽しかったと言う本ではないが、先が気になって頁をめくった(キンドルのページをタップした)ことは間違いない事実だ。

戦争という人の死が日常の中に深く入り込んでいた時代に、二人は互いに自分のいる世界から飛び出し、南印の駐屯地で出会う。仏領だった当時のベトナムは、フランス人たちが作った街なので、日本人にとっては、建物も食べ物も贅沢な別天地。森林を守る役人であるため軍属として赴任した富田、タイピストとして雇われたゆき子。戦争の影はあるが、前線ではない地方都市での暮らしは夢のような暮らしだっただろう。そこで、二人は恋に落ちる。

ゆき子は、お目掛け同然の暮らしから抜け出すためにやって来た。以前の生活からは逃げ出し、冒険心と期待感をもって飛び込んだ異国の地で、富田と出会い、勝手に運命を感じる。やがて恋に落ちるが敗戦とともに日本に戻らなければならなくなる。そして日本で再び富田との愛の日々を継続しようとする。

富田は、自分を取り巻く日常から逃走するために赴任してきた。家族からも、社会からも解き放たれて一人になるためにやって来た。ゆき子との日々は楽しかったが、それは刹那のことだと思っている。敗戦で日本に帰らなければならないということは、家族が待つ生活に、堅苦しい官僚仕事に、戻ることを意味する。

ゆき子は一人で暮らすことなど、考えられない。富田と暮らしたいが、それがだめなら、代わりの止まり木が必要になる。逃げ出してきたはずの伊庭であっても、金をもらえるなら仕方がないと思う。行きずりの外国人ジョンともつきあうが、それはそれでいい。ベトナムでの愛と平和の日々が、真面目で暗かった娘をすっかり変えてしまった。

富田はゆき子と会うつもりもなかったが、会えば昔に戻る。そしてまた、何もかも嫌になって死んでしまおうかとも考える。酒に逃避し、また別の女にも逃避するが、ゆき子とはなかなか切れない。そして、旦那のもとから逃げ出してきて、同棲のようなことになった女が殺され、妻が死に、そして。

戦後すぐの出版ということを考えると、富田やゆき子の、わたしには自分勝手と思える苦悩、自暴自棄ぶりは、当時の読者から共感されたのかもしれない。男と女がいるとすぐにいい仲になってしまうのは、読者サービスでもあり、読者の願望を代弁していたのかもしれない。

 

浮雲 (新潮文庫)

浮雲 (新潮文庫)

 

 

アメリカ流れ者

映画を観た後に、制作裏話などを聞くと、そうだったのかと驚き、再認識することがよくある。そして、その手の話を聞くなら、町山さんがいちばんだ。この本では、21本の映画が取り上げられていて、またしても、なるほどと感心した。

マイケル・ムーア監督の世界侵略のススメを取り上げた回では、アメリカ独特の考え方、「Exceptionalism」についての解説で、これは宗教的な考え方によるものだと知る。また、サブプライムローンが世界中で問題になった際、国家財政が破綻してしまったアイスランドが立ち直ったのは、閣僚を全員入れ替え、ギャンブル的な投資を行った連中を全員刑務所に入れたからだという。さらに。ポルトガルでは、覚醒剤マリファナの所有や使用を合法化しました。そのため、隠れる必要がなくなったので、薬物中毒者が病院に行くようになり、中毒者の数が減ったのだとか。その上、犯罪者にはならないために裁判や刑務所の費用がゼロになったとか。アメリカで大麻を合法化しようという動きには、その真似をして、裁判費用などを削減する目的があるらしい。

翻訳小説を読んでいる時もそうだが、ある程度、海外事情を知っていると、深い読み方が出来るようになる。こうした知識は、努力して学ぶほかないので、こうした楽しい勉強を続けなくちゃなと思う。

 

町山智浩の「アメリカ流れ者」

町山智浩の「アメリカ流れ者」

 

 

映画 グリーンブック

アカデミー賞作品賞作品を公開初日に観てきた。ストーリーはシンプルで、登場人物の対比構造も明確、訴えたいこともはっきりしている。でも、表現がとても現代的で、声高にならないように主張し、映像はあくまでもきれいな色彩で、よく考えられた作りの映画だ。1960年代のアメリカは普通に人種差別をしていたわけだが、多くの人は、差別だというつもりもなく、そういうものだから、というだけで、疑問も持たずによかれと思って慣習を守ってきただけなんだろうなと、この映画を観ていて思った。疑問を持たずに人を傷つけ、女子学生を差別してしまう今の日本人と何も変わらない。常識とされていることを疑わないことは罪なのだ、そう思った。

マハーシャラ・アリの高潔で孤高な感じはとてもよかった。そこにいるだけでストーリーを語れる俳優だ。

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