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べてるの家の「非」援助論

「『弱さ』とは、いわば『希少金属』や『触媒』のように周囲を活性化する要素を持っているのではないか。人の持つ『弱さ』は、けっして劣った常態として、人の目をはばかったり、隠されるべきものではない。べてるでは、弱さとは、公開されて初めて威力を発揮するものとして尊重されている。だから必要なのは『弱さの情報公開』である。」

べてるの家は、精神病院を退院した人たちが集うグループホームだ。精神病院に入院した人はそれだけで阻害されたり、社会や家族からいないものとして扱われたりしてしまう。それが北海道の浦河町にある、べてるの家では、だれもが自分の障害を自覚し、それは個性として受け入れられ、なんと会社経営までしているのだ。

精神病院に通う人たちは、暴れないようにおとなしくなる薬を与えられ、無気力になるようにされてしまう。社会復帰する場合も、いわゆる普通の人たちに危害を加えない存在になることが求められる。それは違うと考えたソーシャルワーカーがいた。自分の感情をコントロール出来ない人を拘束したり、薬づけにして、矯正するのは逆効果なのだ。その人の個性を認めて、人間として向き合うことで、対応していこうと考えた。理解のある医師などの協力により、教会の一隅に「べてるの家」ができあがった。

それは失敗する権利を認めることだった。病院や看護者は再発を防ぐという大義名分のもと、「失敗する権利」を奪ってきたのではないか? そう考え、失敗を認めることで、メンバーは安心して失敗出来る場を得た。納得いかなければ通院を中断することも、薬を拒否することも認めている。それを体験するプロセスも自分にとって大事だからと。そして、メンバーはいつもニコニコしている。「自分はパァーだと思っていればいい気が楽だからね」と言って。

このことが示唆するものは大きい。現在では、SNSやリモート会議などで、安心できることが出来ないために、取り繕い、深い議論を避けているように思える。実際、この本に登場するメンバーたちは、頑張りすぎて、責任感が強すぎて、自らの心を病んでしまった人たちばかりなのだ。周りの期待に応えようと、納得出来ないことも自分に無理強いし、長い間続けていくことで限界を迎えたのだ。発病することが「関係の機器を緩和する装置」として機能したのだと、べてるの家に関わる医師たちは考えた。

メンバーたちは、自分は病気であることを自分の言葉で伝える。「精神バラバラ状態の○○です」というように自己紹介する。自分の言葉を得ることが重要なのだという。そして話しあいを重ねる。問題を解決するためではなく、希望を見いだすために。

それぞれの個性を活かし、必要ならば補うようにして、メンバーそれぞれの「弱み」を活かしている。朝起きられずに、会社に来れなくなったメンバーはしばらくほおっておく。そしてその人の穴を埋めるにはどうしたらいいのかを考える。クビにしたりはしない。なぜならそれは、人を大事にしない組織が普通にやっていることだからだ。そうした組織から彼らは放り出されてしまったのだから、同じことはしないと決めている。

「『精神障害者』とは、言葉を、語ることを封じられた人々である。この二十五年間は『語ることをとりもどす』歩みとしてあったといっても過言ではない。」

自分の言葉を持つこと、失敗できる自由があることの重要性。このことは現代を生きるだれにとっても他人ごとではない。