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映画 十戒

聖書の勉強会に出たせいで、聖書関連の勉強が続いている。録画してあった十戒を観た。私が生まれる前の1957年の作品で、小学生くらいの時にテレビで観た覚えがある。淀川さんの解説だったような。でも覚えていたのは、海が割れるシーンと石版を持って立っているモーゼの姿くらいだった。今回は旧約聖書を読んで、この映画を観たのでようやく物語がつながった。

この映画で描かれているのは、神を信じない人間の愚かさだ。エジプトの奴隷となっているヘブライ人は、神の存在を信じたいと願っているが、もうすでに400年間も同じ境遇にいる。神の存在を疑う人が出てきても仕方がないと思える年月だ。それでも信じている人がいることが凄い。信じる力の凄さだ(これは神の凄さではなく、人間の凄さではないだろうか)。その一方で、エジプトの王は、自分は神の国に入れると信じている。独裁統治をし、膨大な数の奴隷を酷使することで、都市を造り偶像を作り、後世から見たらまさに偉業としか言えないほどの成果物を完成させる。しかし王は本物の神の力を何度も見せつけられてもモーゼの神を信じなかったが、息子が死に、兵士が海の藻屑となってから、ようやく神の存在を信じるようになる。正確には、自分の信じる神とは違う、別の神の存在を信じたのであって、多神教であることには変わりがない。

モーゼもまた神を信じていたものの、神と対話をしたのは、苦難の人生を送り、さんざんに待たされてからのこと。その存在を疑うことはなかったが、なぜ400年も持たなければならなかったのか、と当然の疑問を神にぶつける。が、それには答えてもらえない。神を信じる者にとって、神の教えを守って生きていくことは幸せなのだと思う。しかし、その神を信じることができないからといって、殺されてしまうのはどう考えればいいのだろう。すべての人にとっての神だとモーゼは言うが、そこには選民思想がある。「言うことを聞かないものの命はない」ということに関して言えば、人間の立場は王の奴隷だった時となんら変わらない。人間は好き放題生きるべきだというつもりもないが、対話する関係ではなく、預言者を通じて言葉を伝えるという一方通行のコミュニケーションだけなのは、独裁政治のヒエラルキーと同じ構造ではないか。バベルの塔のエピソードはこの映画では描かれていないが、もしかしたら、対話する力こそが人間の一番の能力なのかもしれないと思った。

途中で、モーゼのことをラムセスに総督が告げ口するのだが、「プリンスと呼ばれた男」と言う。歌手のプリンスが、プリンスという名前を辞めて、そのように自分のことを言っていたことを思い出した。聖書の知識がある人は、きっとそうした背景も想起したんだろうなと思う。