Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

遠雷

1980年の小説。たしか映画を観た覚えがあるが、小説を読むのははじめてだ。ある時代の日本の地方都市の生態をしっかりと切り取っていて、作家の力量を強く感じる。経済成長の波に飲み込まれて、代々続く農地を高値で売り払い、にわか成金になったいくつもの家族の生活がすっかり変わってしまう。主人公の満夫は、林立する団地のそばに残った小さな土地にビニールハウスを建てて、トマト栽培をしている。毎日、毎日収獲しては農協に持って行くが、夏になるとトマトの生育が早くなり、売れ残る前にさばこうと団地で販売をはじめる。
土地を売った金で建て換えた家は、やたら大きく、開けたことのない部屋さえある。父親は金を持って出ていき、女と暮らしはじめる。農地をなくし、働く場をなくした母親は建築現場に日雇いで出かけていく。親友の広次も工事現場で働いている。祖母はぼけはじめている。兄は家を出ていったが、自分の家のローンを払うのに、親父が手にした金の一部をあてにしている。団地にできたスナックでは、主婦が交代で店番をしている。暇を待て余した主婦と、わかい満夫と広次。日常の中から生まれる事件。この小説には通奏低音のように絶望感がずっとつきまとう。
日本中の市町村が一億円という地方創生交付金をもらって、血迷ったのは1988年から1989年のこと。土佐の町では、鰹の純金像を造り、盗まれた。山梨の町では、日本一長い滑り台を作り、三日後に日本一でなくなった。青森の村では、自由の女神像を建てた。緯度がアメリカの自由の女神像と同じだからということで。
この物語の舞台は千葉だ。都会と田舎の両方を感じる場所。貧乏生活とあぶく銭。農地が住宅地になっていく時、人々の暮らしは変わる。価値観が変わる。考えたこともなかった大金に翻弄される。発表されてから、30年近くたって読むと、これは日本特有の話でもないのだと感じる。単調だと思っていた人生が、お金によって狂わされる。金とは無縁の農家の生活で、あきらめ続けていた人生をあぶく銭で取り戻そうとする。自分は何をしたい人なのか。その問いは、どんなときも、どこの国に住んでいても、いくつになっても、なにか人生の節目のような時に問われることなのだ。満夫は優しい。が、流れには逆らえない。シーンの最後に響き渡る遠雷は何を象徴しているのだろう。新たな不安を予告する雷鳴なのか。雨を降らして、通り過ぎていくだけなのか。雨降って地固まるとでもいいたいのか。まもなくやってくるのは、新たな不安なのか、それを通り越した後の淡々とした日常なのか。
遠雷 (1980年)