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映画 沈黙

映画を観に行ってきた。約3時間にもなる大作でエグゼクティブシートでもお尻が痛くなる。ほぼ原作に忠実に作られており、スコセッシ監督の原作に対するリスペクトを大いに感じた。基督者への拷問のシーンは小説を読むだけでも切なかったのに、映像で見せつけられて、言葉が出ない。それでもハリウッドの戦争映画に描かれるナチのように、日本の幕府役人連中は極悪人には見えない。とてもロジカルに、穏やかに、基督教を日本国から排除する理由が語られているし、それぞれに事情や理由があるということが描かれているからだろう。この時代の日本人が基督教に救いを見出したのはなぜなのだろう。そのことをずっと考えているのだが、まだよくわからない。生きることが苦しい、貧しい寒村の人々にとって、神父たちから人間として扱われ、天国では苦しい想いをせずに暮らせるという教えが、救いになったという理屈だけでは、命をかけて信仰を守るという極端な行為の説明としてはまだ足りていない。隠れてまで、命を奪われてまで切支丹でありつづけたのかという問に答えを見いだせなかった。それは今後の私の研究課題だろう。
フェレイラ神父が、日本人はクリスチャニティを理解していない、と言う場面が小説にも映画にもある。そして、日本人が十字架やロザリオなど形のあるものを欲しがることに、懸念を抱く。こうしたシンボルを信仰の対象としていたために「踏み絵」が有効な手段になったのではないか。これについては、日本のキリスト教関係者や研究者に意見を伺いところだ。
原作と違っていたのはエンディングだ。「転ぶ」ことを選択したロドリゴが死んだとき、彼はずっと基督者であったというシンボルがくわえられた。私にとっては、それは必要ないことだと思ったが、決して原作を否定しているわけではなく、より大勢の人にわかりやすくするための工夫なのだろう。
そして、ロドリゴがとらえられ、着物を着せられてあちこちに連れ回される。その時の意志のある表情と立ち姿は、侍のようだった。そう、ロドリゴとガルペが日本への渡航を決意した時、宣教師として、戦士として、不条理で野蛮な東のはずれの国に行くのだ、という決意を語るところがある。確かに、二人は戦士のようだった。
日本の小説を世界的な監督が映画化し、日本人俳優が英語で話すのを字幕も見ながら鑑賞する。不思議な体験だった。暫くの間考え続けていくことになる映画だと思う。
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