Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

カササギ殺人事件

昨年、さまざまな賞を獲ったミステリー小説だ。あまりに人気だったため、古書に出るのもすぐだろうと思って買わずにいた。その代わり、早々と図書館に貸し出しリクエストを出していたのだが、根強い人気が続いているらしく、上巻が届いたのがつい最近だった。実は、下巻の順番は昨年の秋に回ってきたのだが、下巻から読むわけにはいかず、パスしておいた。それで、とりあえず上巻を読んで面白かったら、下巻を買おうと思って読み始めた。

上巻は懐かしい感じがするなあと思いながら、本格謎解きミステリーが進展する。1950年代の英国を舞台にしており、スマホにもAIにも邪魔されず、トリックやアリバイといった要素が重要な役割を占める。そして最後の頁に探偵は犯人が分かった、と言って終わりになる。小説の半分が終わったところで、探偵の謎解きが始まるのか!? 下巻まるまる探偵の説明なのか!? これでは、下巻を読まずにいられないではないか。すぐに下巻を買って、読み続ける。

予想に反して、小説の続きが始まらないのだ。なんだこれはと思いながら、とにかく急いで読み進む。そしてこの小説の世界にすっかり取り込まれ、最後まで一気に読んだ。たしかに、凄い小説だ。たいした作家だ。賞を獲ったのも納得。昨年中に上巻から買って読んでもよかった。

本格謎解きミステリーというのは、もう新機軸はないのかと思っていたのだが、こんな展開の仕方があったのだ。ミステリーの世界はまだまだ広くて奥深い。

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

 

 

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

 

 

ただの眠りを

1984年、メキシコ。72歳になったフィリップ・マーロウは家政婦と拾ってきた野良犬と一緒に住んでいた。探偵の看板を外したわけではないが、引退に等しい暮らしだった。そんなマーロウに、生命保険会社から仕事の依頼が来る。事故死した男の保険金を払い込む前に、事実関係を洗って欲しいという依頼だった。

マーロウは(もちろん)仕事を引き受ける。そして、以前のように、自ら危ない橋を渡り、待ち受ける危険の渦中へ杖をつきながら乗り込んでいく。その杖は、座頭市の映画にインスピレーションを得たという仕込み杖。日本で刀鍛冶に作ってもらったという。

フィリップ・マーロウのストーリーを、チャンドラー亡き後に何人かの作家が書いたが、どれもいまひとつだと感じていた。だが、この小説の中には、たしかにマーロウがいた。犯罪のにおいを嗅ぎつけ、気になる女の後を追う。理性よりも好奇心にまかせて進む無鉄砲な行動。少なめになったとは言え、相変わらず気の利いた言葉を吐く。拳銃の代わりに仕込み杖を相棒に、一人で悪党どもに立ち向かう。

欧米の小説によくあるように、神の視座によって、ときどき物語を俯瞰することなく、主人公の主観カメラを通して読者は旅をすることになる。ハードボイルド小説の楽しさはこれだったなと、久しぶりに実感した。それはわたしたちの人生の旅とよく似ている。

「あなたはあなたで自分の宗教を持つ権利がある」事件の中心にいるドロレスがマーロウにそう言う。これこそ、現代に失われた考えではないか。この一文を読んでハードボイルド小説を読みあさった学生時代にタイムスリップした。そして二人の会話をもう一つ。

「金がすべてじゃないなどとは誰も言ってないよ」「でも、あなたはそのことを信じてない。プライドなんてものを持っている。わたしもドナルドもそんなよけいなものは持ってない。幸運なことに」

物語の最後、メキシコの砂漠でマーロウは息子を亡くした老人に会いに行く。そして砂塵の舞う景色のなかで、黙ったままのふたり。すばらしいラストシーンだ。

・・・私たちはともに無言のまま長いことそこに坐っていた。たぶんそのときを壊したくなくて、言わずにおかれたことによけいなことばを加えたくなくて。

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)

ただの眠りを (私立探偵フィリップ・マーロウ)

 

 

テレビ 100分deナショナリズム

この番組は正月の3日に放送されたものを録画しておいて、ようやく観た。100分de名著の特別編だ。

ナショナリズムと聞いて最初に連想するのは、ナチ、戦争、右翼など。自分の国が一番だとまっすぐに信じられるのは凄いなあと思う。どうして自分の国というまとまりが大切で、他国に侵略したり、他国民を殺してもいいと思えるのだろう。ヘイトも同じで、自分の国よりも他の国が劣っていると信じていて、罵声を浴びせたり、暴力を振るってもいいと思えるのだろう。ずっと疑問だった。

一方で、オリンピックとかワールドカップとかになると、日本頑張れと思っている自分に気がつく。あれは、選手が凄いのであって、その人がたまたま同じ国の人だというだけなのに、なぜか日本頑張れと思ってしまう。日本以外の国の人もそうなのだと思う。

ナショナリズムとは想像の中にしかない、と言われてなるほどと思った。たしかに、1億2千万の国民のほとんどとは、一生会うことがない。概念でしかない。

パトリオティズムとも違う。たとえば、政府の利害(ナショナリズム)と沖縄の利害(愛郷心パトリオティズム)が対立することがある。

ナショナリズム選民思想でもある。同じ船に乗る人たちの連帯感。そして、選ばれなかった人、棄民がつねに存在する。最近のヘイトは、自分が国に選ばれているかどうかが心配で、他者を棄民だと位置づけることで結果として自分は選ばれたのだと思い込みたいがゆえの行動だという。

超国家主義というのもある。ナショナリズムを超えた先にあるものは、すべてが渾然と一体化することで、救いが得られると考えること。他者に認められないことがきっかけで、対立ではなく、すべてが1つになれば、他者はいなくなるという、対立軸自体を否定してしまう発想。競争の否定と同じなのかもしれない。イスラム原理主義にも近いと紹介されていた。

この前のラグビー・ワールドカップはにわかラグビーファンとして、とても楽しんだ。日本チームは世界の強豪をいくつも破り、その強さを世界に知らしめた。いろんな国籍のメンバーが、日本チームとしてまとまっていたことが、素直に彼らの活躍を喜べた大きな理由だったなと、わたしは思った。相撲の世界では、つねに日本人の横綱待望論がある。国技といつも言うのも気になる。今回のラグビー日本代表は、それと対局で、人間の多様性を生かしながら、1つにまとまって闘った。そんな素晴らしいチームが、日本のチームでもあったことは本当に素晴らしかった。全員日本人でなくて心地よかった。日本万歳とは叫ぶことができなかったからだ。日本チームありがとう、とは言えた。

ナショナリズムとの対比で、キリスト教の話が出た。ナショナリズムは同じ船に乗る人たちの共同幻想であり、限界がある。しかし、キリスト教徒は、世界中をキリスト教の思想に染めようとしていて、限界がない、という対比の話があった。それは他の宗教も同じなんだろうけれど、海を越えて、キリスト教を広めるという宣教師の原動力はそういうことなのだと思った。

 

献灯使

ドイツ在住でドイツ語で小説を書いている多和田葉子さんの小説。この本は日本語で書かれ、英訳版が広く読まれているという。義郎という老人が、無名という名の小学生と二人で仮設住宅で暮らす。この二人はおじいさんと孫という関係ではない。曾おじいさんと曾孫なのだ。舞台は未来の(すぐ先かもしれない)日本。大災厄に見舞われた後、日本は鎖国政策をとることにした。外来語は禁止され、鎖国以降に育った子供たちはそもそも外国語(外来語)を知らない。老人たちはみな、不死であるかのように元気で動き回る。義郎は107歳になる。子供たちはみな、ひ弱で食事をすることも歩くこともままならない。無名は15歳の時には車椅子を使うようになる。無名は献灯使に選ばれるのだが・・・。

多和田さんは東日本大震災のあと、福島に何度か訪れた。そのときに見た日本は「私が長年ベルリンから見て感じていた姿だった」という。元気な年寄りと繊細なこども。たしかに、この小説で描かれる人々は、フィクションとは言え、現代の日本の老人の姿のどこか一部を引っ張ったり、こどもたちの一面を拡大しただけといえなくもない。現代小説の中に、現実と似た風景を見ることはよくあることだが、近未来SFとも、ディストピアともいえる小説の中に、今の日本の風景のかけらが散乱して乱反射している。

自分自身も、どこかおかしい、このままじゃいけない、と思いながら年月を過ごしてどのくらい経っただろう。政府御用達メディアばかりになっている今、小説の力、役割をあらためて考えた。

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)

 

 

むかしむかしあるところに、死体がありました。

 日本人なら誰もがよく知る昔話の登場人物や枠組みを使って、視点をずらし、妄想を膨らませ、突っ込みを入れて、ミステリー仕立てにした短編集。一寸法師、花咲かじいさん、鶴の恩返し、浦島太郎、桃太郎のお話の中になぜか死体が発見される。そこからいつもの物語が脱線し始め、アガサ・クリスティ風謎解きミステリーになっていく。そして「なるほど、そう来たか」と思っている間にあっという間に完結する、うまい構成だ。嫌いじゃない。わたしはkindleで読んだが、表紙のイラストが見られるカミの本の方がこの世界観をより楽しめたに違いない。

2013年に、親を殺された、子どもの鬼の視点から「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というキャッチフレーズをつけた新聞広告が大賞を取ったことを思い出した。視点を変えよう、という趣旨の広告だったと思うが、そうした発想の転換が共通の認識として広まった成果なのかなとも思えた。

むかしむかしあるところに、死体がありました。

むかしむかしあるところに、死体がありました。

 

 

映画 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け

一年ぶりのスター・ウォーズ。楽しみな反面、これで最後かとすこし切ない想いで席に着いた。IMAX 3Dのメガネをかける。最初は違和感があったが、いつの間にか気にならなくなっていた。映画はとても楽しめた。あれだけのシリーズの中でいろいろとあった伏線を見事に回収し、くるりと円を描くように物語は見事に着地した。懐かしいキャラクターに出会えた。今回も仲間も失った。切ない別れもあった。それでも確かな希望があった。エンドロールが終わり、拍手が起こった。

これは本当に映画館で観るべき映画だ。画面が大きいとか、3Dだからとかではなく、非日常の空間で人生の真理に一人で向き合う映画だからだ。近頃、宗教のことをいろいろと考えていたが、君はスター・ウォーズ教なのか、と聞かれたたなら、はい、と言いたい。このシリーズを観るたびに、いつもいろいろなことを考えさせられる。

この映画にはたくさんの物語が凝縮されている。武士道の要素はもちろん、シェイクスピアも聖書の物語も。欧米人はもっと多くの物語をその下敷きとして認めるのではないだろうか。

最初のスター・ウォーズを観たとき、宇宙の様々な生物が作り物っぽいのが気になったことを、今日、映画を観ながら思いだした。それも含めてすべてが愛おしい。今度は、物語の時系列に従って、見直してみようと思う。

https://starwars.disney.co.jp/movie/skywalker.html

映画 十戒

聖書の勉強会に出たせいで、聖書関連の勉強が続いている。録画してあった十戒を観た。私が生まれる前の1957年の作品で、小学生くらいの時にテレビで観た覚えがある。淀川さんの解説だったような。でも覚えていたのは、海が割れるシーンと石版を持って立っているモーゼの姿くらいだった。今回は旧約聖書を読んで、この映画を観たのでようやく物語がつながった。

この映画で描かれているのは、神を信じない人間の愚かさだ。エジプトの奴隷となっているヘブライ人は、神の存在を信じたいと願っているが、もうすでに400年間も同じ境遇にいる。神の存在を疑う人が出てきても仕方がないと思える年月だ。それでも信じている人がいることが凄い。信じる力の凄さだ(これは神の凄さではなく、人間の凄さではないだろうか)。その一方で、エジプトの王は、自分は神の国に入れると信じている。独裁統治をし、膨大な数の奴隷を酷使することで、都市を造り偶像を作り、後世から見たらまさに偉業としか言えないほどの成果物を完成させる。しかし王は本物の神の力を何度も見せつけられてもモーゼの神を信じなかったが、息子が死に、兵士が海の藻屑となってから、ようやく神の存在を信じるようになる。正確には、自分の信じる神とは違う、別の神の存在を信じたのであって、多神教であることには変わりがない。

モーゼもまた神を信じていたものの、神と対話をしたのは、苦難の人生を送り、さんざんに待たされてからのこと。その存在を疑うことはなかったが、なぜ400年も持たなければならなかったのか、と当然の疑問を神にぶつける。が、それには答えてもらえない。神を信じる者にとって、神の教えを守って生きていくことは幸せなのだと思う。しかし、その神を信じることができないからといって、殺されてしまうのはどう考えればいいのだろう。すべての人にとっての神だとモーゼは言うが、そこには選民思想がある。「言うことを聞かないものの命はない」ということに関して言えば、人間の立場は王の奴隷だった時となんら変わらない。人間は好き放題生きるべきだというつもりもないが、対話する関係ではなく、預言者を通じて言葉を伝えるという一方通行のコミュニケーションだけなのは、独裁政治のヒエラルキーと同じ構造ではないか。バベルの塔のエピソードはこの映画では描かれていないが、もしかしたら、対話する力こそが人間の一番の能力なのかもしれないと思った。

途中で、モーゼのことをラムセスに総督が告げ口するのだが、「プリンスと呼ばれた男」と言う。歌手のプリンスが、プリンスという名前を辞めて、そのように自分のことを言っていたことを思い出した。聖書の知識がある人は、きっとそうした背景も想起したんだろうなと思う。