Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

西太后秘録 上下

西太后については、側室から清王朝の女帝にまで上り詰めた人ということ以外はほとんど知らなかった。が、中国の近代化に大きく舵を取ったキーパーソンだったことがよくわかった。頭が良く、政治的な駆け引きにも長じていて、長く政権を実質的に支配していた。当然、そうした人物はねたまれる。暗殺も計画される。大切な人を嵌められる。一番の部下を殺される。日新戦争の時は、実質的な権力を奪われていた時だったから、清国は不当な要求を呑まされた。この人が実権を握っていたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。さらに晩年は漢民族支配の新王朝の中で、満州民族出身ゆえに、自分の死後は満州民族が殺されることを怖れ、先に手を打つ。女性ゆえに、少数民族ゆえに、歴史から葬られた偉大なる女傑の生涯の物語は大河のように流れた。

 

西太后秘録 上下巻合本版

西太后秘録 上下巻合本版

 

 

ひみつのしつもん

翻訳家、岸本佐知子さんのエッセイ。この人の、ちょっと不思議な角度に突き進むものの見方とそれをあますところなく文章にする力には本当に感服する。こんな人がいるんだな、と感心する。題材はもしかしたら、私も同じような気づきをする事柄かもしれないが、日常の何かを起点にした、そうした発見をどこまでも、あらぬ方向へと広げて行く。読後感は、うーむとしかいえない。狐につままれるというのはこういうことか。

一行目からいきなり、ぐいっと異世界へ連れて行かれる。星新一ショートショートのように。日常生活のどこにでも、ちいさなささくれのようなものが、なぜかこの人の想像力を大いに刺激し、ものすごい勢いで妄想の世界へ向かって暴走する。妄想だとわかっているのに、緻密な言葉で描写されたリアルな世界の立て付けに感心していると、セットは崩れ、舞台は暗転。またもまんまと騙されたと、悔しいけれど嬉しくなる。なんなんだ、この作家は!と思わせておいて、本業は翻訳家なのだ。どこまで小馬鹿にするのか!と思いつつにやにやしてしまう。

言葉の選び方、適切な運用能力がはんぱない。英語と日本語の間をいったりきたりする翻訳家であるがゆえに鍛えられたものなのだろうけれど、日常のちいさなほころびを逃さず、大事にしてしまう妄想力は、幼少の時から培ってきたものなのだろう。いやはや。なんとも楽しい本だ。

ひみつのしつもん (単行本)

ひみつのしつもん (単行本)

 

 

ちいさなのんちゃん

これは幼い娘を激愛する母親の日記のような漫画である。わたしにはわからないことも多いが、子どもを持つ親なら、あるあるネタのオンパレードに違いない。漫画家の母親は可愛くてしかたのないわが娘を見ながら、自分の幼い頃の記憶を重ね、漫画家らしい妄想を膨らませ、ついつい余計なことをしてしまう。その娘はアイドルのような、俳優のような立派な娘に成長したのだから、育て方は間違っていなかったのだろう。わたしは、作者の手書きの文字を懐かしく思いだしながら、同じ学科の大学生だったころ頃からなにも変わっていない作者にただただ感心するばかりである。

NNH publishing 2019年

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ちいさなのんちゃん NNH publishing

 

もしもし下北沢

主人公のよしえは、父を亡くしたばかりだ。父はどこかの女の人から無理心中の相手にさせられ、突然死んでしまった。母と父と三人家族だったが、突然の出来事に自分も母も茫然としたままどうしていいのかわからない日々が続いた。よしえは、自分を立て直すために、親子三人で住んでいた目黒のマンションから下北沢のアパートに引っ越し、一人暮らしを始める。その、古い小さな部屋に母親が転がりこんでくる。あのマンションにいると父の幽霊を見るからと言って。親離れをしようという、よしえの思惑は外れるが、母もまた、自分の人生を自分の手に取り戻そうとしていだのだ。そしてふたりは下北沢の街になじんでいくなかで、自分の人生を取り戻していく。

言葉にならない気持ちや思いは、いつもある。それは言葉として定着してしまうと、何か違ったものになってしまうから、言葉にせずに胸に留めておく感情がある。そしてだんだん薄れていってしまうのだ。ところが、この本には主人公の、感情の起伏が丁寧に的確な言葉ですくい取られている。心の波立つ感じまで、しっかりと表現されている。すごい作家だ。本当にびっくりした。もの凄い色数の色鉛筆セットを見るたびに、誰がこんなものを使うのだろうと思っていたけれど、よしもとばななは、何百色という色をしっかりと使い分けて描いているようだと思った。

なくなった親のことや、飼っていた犬のこと、失恋のことなどを思い出す時、切なくて悲しくて、どうにもやるせない、感情の塊が胸の中に今もあるのがわかる。それは、ずっとそのことを考えていると濃縮スープを溶かした時みたいに、だんだんと、その当時のリアルな感情が甦ってくる。この小説は、そんな感情を呼び起こすきっかけとなる表現が一杯つまっている。

下北沢にはときどき行くだけで、街の詳細はよく知らない。しもきたをよく知っている人はさらに別の楽しみ方もできるのだろうなと思った。

もしもし下北沢 (幻冬舎文庫)

片岡義男COMIC SHOW

片岡義男の小説をテーマに7人の漫画家がコミックを描くという面白い試みの本だ。80年代にとても流行した作家だが、当時は、お手軽小説だと受け取られていた。でも、片岡義男をずっと読んでいくと、ドライで、クールで、歌謡曲で、ハワイな、独自の世界観が見えてくる。小説の舞台によって、まさにアメリカンな世界から、日本のとくにサラリーマンの世界まで、さまざまな人々を描いている。それを漫画家たちが自分の画風でコミックにしていて、どれもタッチが違っていて面白い。面白がる部分がそれぞれ違っているということだ。

最近、80年代のKADAKAWAブームを知らない若者たちが、片岡義男を再発見しているようだが、今の世代の方がふつうに、空気感を受け入れられると思う。当時、テレビや映画、雑誌POPEYEなどを通して、「カッコいいはず」のものとして伝えられたアメリカ的なカルチャーは、さまざまなチャネルから情報を得ている、今の若者たちにとっては、好き勝手に解釈して楽しめるはずだからだ。この本のような企画が出てきたのも、そんな自由な発想から生まれたのではないだろうか。

付録には、テリー・ジョンソンが描いたコミックブックがついている。テリーもまた、アメリカンPOPが好きな作家で、変わっていないんだなと嬉しくなった。二人を結びつけて考えたことはなかったが、同世代だし、仲が良くてもまたく不思議はない。

左右社から。

映画 ジョーカー

ジョーカーとは、ジョークを言う人のことなのだ。

そのことを改めて認識した。

ヒース・レジャーのジョーカーがあまりに鮮烈だったために、あのような極悪非道の、アンチヒーローのことをジョーカーと呼ぶのだとどこかでずっと思っていた。トランプゲームでもオールマイティの札だからね。そんなジョーカー像を求めて、この映画を観ると肩すかしを食わされる。

主人公のアーサーは精神の病を抱えていることが観客にすぐに知らされる。ピエロの斡旋会社(!)で働く彼は、不幸な目に遭いながら、コメディアンを目指す。そして、自分の生い立ちを知り、そして否定できない事実を突きつけられ、自己の解放を果たそうと決意する。ある事件がきっかけで、不満にあふれた町のヒーローになったことも、彼の決意を正当化する力になった。それが彼の不幸だったといえるかもしれない。

映像では、どこまでが現実で、どこからが彼の妄想なのかが曖昧だ。その上、アーサーを演じるのは、ホアキン・フェニックスだ。彼に宛て書きした台本だと言われている。真実と虚の境はこの俳優の不気味な存在感によってますます曖昧になる。

この映画を先に観た人からは、落ち込んでいない時に観た方がいいよ、と言われたが、私にはそうした思いは湧いてこなかった。彼の葛藤や切なさ、苦しみは切ないほど感じたが、それがそのまま人を殺すことを正当化する理由にはならない。もっとやれ、と応援する気にはなれない。チェーン・オブ・イベンツというわしいが、不幸な事が重なって、どんどんひどい状況に追い込まれていく。それゆえ、彼の行為は仕方ないね、と理由づける人もいるかもしれないが、それだけが正解ではない。きれいごとを言うつもりはない。銃が身近にある国で生まれ育った人がこの映画を観るならば、きっと違う感じ方をすると思う。アーサーはいい人だったが、ある日を境に一線を超える。それを仕方ないと思うかどうか。私には、彼が当然のように一線を越えて極悪人になっていくストーリーは無理があると感じた。

「クローズアップで見ると悲劇でも、引いて見ると喜劇だ」ということをアーサーは言う。しかし、コメディアンになりたかったアーサーは、自らのジョークで人を笑わせることができず、それでも自分を喜劇の中の登場人物になろうとしてあがく。それはやはり喜劇ではなく、悲劇に見える。それもまた、台詞とは裏腹だ。その意味で、アーサーは虚と実を行き来する役回りのジョーカーになったのだ。正義に対抗する、悪のシンボルではなく、価値観をひっくり返す皮肉なジョークを口にするジョーカーに。それが受けるとか受けないとかは関係ない。それがジョーカーの役割だから。

http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

11月に去りし者

おもしろい小説だった。舞台は1963年11月22日から始まる。そう、ケネディが暗殺されたことから物語は動き出す。マフィアの幹部ギドリーは、ケネディ暗殺のニュースを聞いて、ぴんと来るものがあった。その一週間前、ダラスの町で自動車を一台手配する仕事をしていたからだ。その車は暗殺事件に関与したに違いない。そして、その車を処分する依頼が来た。やはり。ボスは、すべての証拠とすべての関係者を消すつもりだ。俺も消される。そして、逃避行が始まる。

彼を追う殺し屋バローネのストーリーが重なり、アル中の夫を捨てて娘二人を連れて車で西へと向かう主婦シャーロットのストーリーが重なる。ハードボイルドタッチだが、登場人物それぞれの心情が吐露されている。疑心暗鬼、一喜一憂。信じたいけれど、絶対的な確信は得られない。嘘だとわかっていても、そこには一片の真実がある。誰もがみな人間くさく描かれている。

ケネディ暗殺にまつわる映画や映像はたくさん見ている。だから、当時のアメリカの町並みや男他のスーツ姿、女たちの服装、無骨な拳銃、マフィアたちが乗る車、みんな、脳内で映像化できる。だから、とても読みやすく、どんどん引き込まれる。ヒリヒリする日々の連続。追う者、追われる者。騙すはずが愛してしまった男、騙されてもいいと思っていても、自分の心は騙せなかった女。そしてギドリーが選択した結論。

エピローグは2003年の話になる。事件から40年後。ヒリヒリとした日常が連続した40年前のストーリーとはがらりと変わって、小さな幸せが描かれる。幸せは過去形になってからでないと語れない、見つけられないものなのだとしみじみ思う。

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11月に去りし者