Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

映画 ジョーカー

ジョーカーとは、ジョークを言う人のことなのだ。

そのことを改めて認識した。

ヒース・レジャーのジョーカーがあまりに鮮烈だったために、あのような極悪非道の、アンチヒーローのことをジョーカーと呼ぶのだとどこかでずっと思っていた。トランプゲームでもオールマイティの札だからね。そんなジョーカー像を求めて、この映画を観ると肩すかしを食わされる。

主人公のアーサーは精神の病を抱えていることが観客にすぐに知らされる。ピエロの斡旋会社(!)で働く彼は、不幸な目に遭いながら、コメディアンを目指す。そして、自分の生い立ちを知り、そして否定できない事実を突きつけられ、自己の解放を果たそうと決意する。ある事件がきっかけで、不満にあふれた町のヒーローになったことも、彼の決意を正当化する力になった。それが彼の不幸だったといえるかもしれない。

映像では、どこまでが現実で、どこからが彼の妄想なのかが曖昧だ。その上、アーサーを演じるのは、ホアキン・フェニックスだ。彼に宛て書きした台本だと言われている。真実と虚の境はこの俳優の不気味な存在感によってますます曖昧になる。

この映画を先に観た人からは、落ち込んでいない時に観た方がいいよ、と言われたが、私にはそうした思いは湧いてこなかった。彼の葛藤や切なさ、苦しみは切ないほど感じたが、それがそのまま人を殺すことを正当化する理由にはならない。もっとやれ、と応援する気にはなれない。チェーン・オブ・イベンツというわしいが、不幸な事が重なって、どんどんひどい状況に追い込まれていく。それゆえ、彼の行為は仕方ないね、と理由づける人もいるかもしれないが、それだけが正解ではない。きれいごとを言うつもりはない。銃が身近にある国で生まれ育った人がこの映画を観るならば、きっと違う感じ方をすると思う。アーサーはいい人だったが、ある日を境に一線を超える。それを仕方ないと思うかどうか。私には、彼が当然のように一線を越えて極悪人になっていくストーリーは無理があると感じた。

「クローズアップで見ると悲劇でも、引いて見ると喜劇だ」ということをアーサーは言う。しかし、コメディアンになりたかったアーサーは、自らのジョークで人を笑わせることができず、それでも自分を喜劇の中の登場人物になろうとしてあがく。それはやはり喜劇ではなく、悲劇に見える。それもまた、台詞とは裏腹だ。その意味で、アーサーは虚と実を行き来する役回りのジョーカーになったのだ。正義に対抗する、悪のシンボルではなく、価値観をひっくり返す皮肉なジョークを口にするジョーカーに。それが受けるとか受けないとかは関係ない。それがジョーカーの役割だから。

http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

11月に去りし者

おもしろい小説だった。舞台は1963年11月22日から始まる。そう、ケネディが暗殺されたことから物語は動き出す。マフィアの幹部ギドリーは、ケネディ暗殺のニュースを聞いて、ぴんと来るものがあった。その一週間前、ダラスの町で自動車を一台手配する仕事をしていたからだ。その車は暗殺事件に関与したに違いない。そして、その車を処分する依頼が来た。やはり。ボスは、すべての証拠とすべての関係者を消すつもりだ。俺も消される。そして、逃避行が始まる。

彼を追う殺し屋バローネのストーリーが重なり、アル中の夫を捨てて娘二人を連れて車で西へと向かう主婦シャーロットのストーリーが重なる。ハードボイルドタッチだが、登場人物それぞれの心情が吐露されている。疑心暗鬼、一喜一憂。信じたいけれど、絶対的な確信は得られない。嘘だとわかっていても、そこには一片の真実がある。誰もがみな人間くさく描かれている。

ケネディ暗殺にまつわる映画や映像はたくさん見ている。だから、当時のアメリカの町並みや男他のスーツ姿、女たちの服装、無骨な拳銃、マフィアたちが乗る車、みんな、脳内で映像化できる。だから、とても読みやすく、どんどん引き込まれる。ヒリヒリする日々の連続。追う者、追われる者。騙すはずが愛してしまった男、騙されてもいいと思っていても、自分の心は騙せなかった女。そしてギドリーが選択した結論。

エピローグは2003年の話になる。事件から40年後。ヒリヒリとした日常が連続した40年前のストーリーとはがらりと変わって、小さな幸せが描かれる。幸せは過去形になってからでないと語れない、見つけられないものなのだとしみじみ思う。

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11月に去りし者
 

血の収穫

久しぶりにハードボイルド小説を読んだ。しかも名作中の名作の一つで、学生の頃読んだ本の新訳だ。発売と同時に買ってずっと寝かせていた本だったが、なかなか読む時間を作れなかったのだけど、風邪を引いて寝込んだために、この本を読む時間ができた。

ダシール・ハメットの長編は少なく、あまり得意ではないのかもしれない。この本でもかなり強引に展開する部分もあるのだが、ぐいぐい引っ張っていく乾いた文体と派手な事件がページをめくる手を止めさせない。

ポイズンヴィルと呼ばれる町を浄化したいという、新聞社の社主からの依頼を受け、コンチネンタル探偵社の捜査員オプがやってくる。彼が町に着いてすぐ、依頼主は殺されてしまう。そこであきらめてしまっては、ハードボイルドの主人公にはなれない。仕事として受けた以上、自分なりのやり方で仕事を遂行することにする。ギャングたちは互いの利益のために、裏で手を握っている。オプはギャングたちに互いにつぶし合いをさせて、町の大掃除をしようと決心する。

そして、この町の主立った人物はギャングも警官も女も弁護士も命を落とし、誰も得をしないまま荒涼とした町だけが残った。

ギャングが撃った弾の数、死んだ人間の数、動員された警官の数、焼け落ちた建物の数。スケールの大きさに驚愕する。禁酒法時代のアメリカの読者にとって、ギャングの抗争も拳銃騒ぎも身近なことだったろうから、ここまでの規模を描かなければ、小説を読む価値などなかったのだろうか。荒唐無稽という人もいるだろうが、それはハードボイルド小説にとって褒め言葉に違いない。

 

閑話休題 テニススクールで

今日は、本の話でも映画の話でもない。テニススクールに通っている。少し背伸びをして、上のクラスに入れてもらったので、コーチの言う通りにはできない。でも、言われたことを実行しようとしている。それが人から学ぶということだから。でも、なかなか上手なのだが、コーチの言われた通りにやらない人がいる。あきらかに、言われたことと違う事をしている。もったいないなあと思う。苦手なこと、知らないことだから教えてもらっているわけで、自分ができることを増やすには新しいこと、難しい事にチャレンジしなくちゃならない。どんなに大変でも。コーチの言うことを聞かないタイプの一例に、すぐにコーチと仲良くなって、ため口になったり、若いコーチだと上からものを言う、ミドルエイジドの女性がいる。だれとでも仲良くなれるのはすごいことだけど、そのせいで、コーチの指示を回避してしまっている。そんなのできないし、という感じで、最初からトライもしない。もったいないと思う。スクールは、コーチに指導される難題をかいくぐってサバイバルするところではなくて、できないことにチャレンジして玉砕して、また繰り返して、少しずつ身につけていくところだからだ。自分の子供くらいの年齢のコーチだったとしても、相手はプロだ。学ばなければもったいない。

映画 ナミヤ雑貨店の奇跡

ずっと前に録画してHDDに入っていたのをようやく観れた。お店の常連の子供たちから寄せられた相談に、何十年ものあいだ答えていたご主人のもとに人生の岐路に立った大人たちからも、相談が寄せられるようになる。こうした相談に対する回答は、どちらともとれる言葉を自分の思いにしたがって解釈することになるから、どちらかと言えば受け取り手の問題になる。それでも、自分の悩みを真摯に受け止めてくれた人がいるということは、それだけで、生きる力になることもある。

ご主人は、自分の死期を悟り、自分の三十三回忌に一日だけ窓口を開いて、自分の回答を受け取った人たちから、その後の人生について教えてもらいたいと、息子に託す。そして、その日がやって来て、2012年が1980年と時を超えてつながる。そして不思議なことが起こり、そこに巻き込まれた人たちに奇跡が起こる。時系列を解体することで、ファンタジーが立ち上がる。上手な物語だと思う。

ここ数年、日本の映画はファンタジー仕立てが多い。たいていは、死者と再び会うことになったりする「こうあってほしい」という、現代では失われてしまった人間の願いを描いている。それは、即効性のある癒やしとして、現代に求められているものなのかもしれない。

一方で、欧米の作家が描くファンタジーは、大きな視点から描かれた、ファンタジーでないと描ききれない物語のように思える。指輪物語の壮大なストーリーのように。それは癒やしではなく、新たな問いを視聴者や読者に投げかける。生きることについてだったり、世界の見方についてだったり。

どちらがいいとか、そういうことではなく、作家の視点や関心がどこに向かっているかの違いなのだろう。今回観た映画は、よくできていたけれど、そんなことを考えさせてくれた。

映画 ロケットマン

ずっと愛が欲しかったんだな、と映画を観終わってまず感じた。愛って何かわからなかったから、探しもとめていたんだなって。ただ、ハグしてほしかっただけなのに。ただ自分のことを受け止めてもらいたかっただけなのに。エルトン・ジョンの歌は、学生時代、社会人になり始めた頃、ずっとBGMのように流れていた。素晴らしい歌を、しっとりとした歌も歌うのに、なぜか仮装好きなPOPスター。おかしな人だと感じながら、POPスターとはそういうものなのだと勝手に思っていた。

楽家に限らずアーチストは、何かが欠落しているから、その穴を埋めようと何かを創り出すという人がいるが、彼は自分を全面的に受け入れてくれる人、場所を追い求め、その精神的な活動の中で音楽を創り出したのだろうか。天賦の才能に超絶ピアノ技巧を加えて、独自の歌を作った。盟友の作詞家がいたことも大きい。その才能を周りは放っておかない。音楽の持つ力は凄いものだし、そして大金を生み出すから、いろんな人たちがよってくる。そのときに、自分を保っていられるかどうか。アーチストは孤独だ。ミュージシャンは特に、取り巻きが増えるから、群衆の中の孤独を味わうことになる。一人でいる時間が減り、しらふでいられる時間が減り、睡眠時間が減る。なんでもとことん突き詰めてしまうのがアーチストだから、お酒が増え、薬にたより、sexに溺れる。自分を保つのがますます難しくなる。フレディと同じだ。

母に自分がホモセクシャルたど告げると、母は「もう誰にも愛されることはない人生をあなたは選んだのよ」と彼に告げる。エルトンは、自分の性向を否定されたということより、うすうす感じていた、母の愛の不在が確かなことにショックを受ける。

エルトンは酒と縁を切ることにする。そこで、もう一度自分を取り戻した。いや、ずっと手に入れたかったものが何かを再認識し、もう一度、求めた。今の彼は幸せそうだ。生きていてくれて良かった。

それにしても、音楽とは不思議なものだ。人の心に届く。外国語の歌でも涙がこぼれる。映像が浮かぶ。過去のある日がリアルに浮き上がり、匂いもする。魔法のようだ。そして、ミュージシャンは魔法使いのようだ。だから、人間とは違う体験をしてしまうのだろう。

隣の席のおしゃべりなおばさん二人は、映画が始まるとじっと静かに見入っていた。そしてエンドロールが流れると、歌を一緒に口ずさんでいた。エルトンのファンはすごい。

https://rocketman.jp/

ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた。

この雑誌とは「マンハント」のことだ。1958年から1963年まで、アメリカの雑誌「manhunt」の日本語版として、ミステリーなどを紹介したA5サイズの雑誌だ。新刊で売られていた当時のことは、もちろん知らないのだが、ミステリー雑誌の草分けだという、この雑誌の存在は知っていたから、大学時代に神保町の古書店で一冊買ったことがある。今も書棚のどこかにあるはずだ。学生の頃はミステリーマガジンを読んでいたし、ハードボイルド小説が好きで、古書店でペイパーバックを買いあさっていた。手に入れたマンハントは、そうとうに古びていて、そっと開いて眺めただけだったから、どんな人たちが書いていたのかまで、分析することはできなかった。手に入れただけで満足したんだと思う。

この本を読んでわかったのは、そうそうたるスタッフがこの本に関わっていたということだ。私の好きな片岡義男の他にも、植草甚一小鷹信光湯川れい子都筑道夫田中小実昌中田耕治矢野徹など、学生時代に好きだった作家が勢揃いしている。

この雑誌は「新青年」というさらに以前出ていた雑誌の後継を目指したという話が出てくるが、さすがに新青年のことは知らない。ヒッチコックマガジンを若き日の小林信彦が編集していたことは知っていたが、ハードボイルドかぶれの私は、そちらにはあまり関心がいかなかった。マンハントが、新しい翻訳文体を作りだしたことやカラーグラビアのことなど、へえー、と言いながら、学生自体を思い出して楽しんだ。平野甲賀の装丁もかつての晶文社の単行本そのそもので、なんだか嬉しい。

著者の鏡明は、SFの人で、広告業界の有名人でもあるというくらいしか知らなかったけれど、おもしろい文章を書くのだなと思った。お会いしたこともあるのだけれど、言葉を交わしたことはなかったな。

 

ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた

ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた