Life and Pages

本や映画、音楽、日々の雑感

映画 キングダム

途中で、うーんと思って一旦スクリーンから眼を外した。マンガを映画にするのは難しいのだなと改めて思う。

三月のライオンの映画は、よくできていた。マンガの世界観をしっかりと受け継いでいて、マンガの愛読者として満足できたし、それ以上に映画の中の登場人物がしっかりと自分の物語を生きていた。筋書きを知っているはずなのに、登場人物たちの切なさや悔しさや焦りを追体験できて、映画としてとても楽しめた。

キングダムは、原作のマンガのことが気になっていた。この映画を観ようと思ったのは、三国志のスケール感を実写で観たかったからだ。それと、最近知り合った人が面白かったと言っていたことも理由の一つ。スクリーンの中に映し出された中国の広大な景色は、わたしの想像とはすこし違っていたが、それはまあ良しとしよう。

気になったのは演出だ。アップを多用することから監督の意図はわかった。これはアイドルありきのテレビの作り方だ。興行的にはそれが悪いとは思わないし、大ヒットしている理由もそれがあたったのだと思う。ただ、崖を歩くシーンも谷底へ落ちるかもしれないという恐怖感は感じられないし、秦の王宮前に兵隊が整列するシーンもただ大勢がいるというだけで、圧倒する感じが伝わってこない。そして戦闘シーンでは、人間の動きではなくなる。ものすごいジャンプは人体の動きの延長線上になく、スーパーマリオのようにピョンと飛びはねる。高速回転する殺し屋は回転を説明する映像で描かれるだけで、対戦相手の動揺、恐怖が伝わってこない。

スターウォーズジェダイの戦闘シーンは緊迫感があり、ハラハラさせられる。投げ飛ばされるときも、生身の身体が投げ飛ばされるような、人体の重さ、何かに衝突するときの衝撃が描かれているから、観ていても痛みが想像でき、悔しさも共感できる。

マンガのように弾き飛ばされてしまっては感情移入はできない。マンガを実写にする意味はどこにあるのだろう。

映画の終盤に、王騎の得体の知れない凄みを感じさせることを目的とした場面があるのだが、目的は達成できていないと感じた。

NHKテレビ 英雄たちの選択 土偶を愛した弥生人

日本史の教科書では、1万年続いた縄文時代は、大陸から稲作と鉄器がもたらされると弥生時代へと変わった、と教えられている。

しかし、元号を変えるように、ある日一斉に日本中が稲作をはじめるわけはないし、1万年続いた文化などが一気になくなるわけもないのだ。今回の番組では、弥生人の集落と縄文人の集落が隣り合って共生していたことが近畿地方の遺跡から判明した。また、九州の弥生時代の遺跡からは、東北の特徴的な縄文土器の破片が見つかり、さらに縄文の代表的な遺跡である土偶が、近畿地方から見つかった。これはおそらく、大陸から九州地方に最初に伝わった稲作を学ぼうと東北に住んでいた人々が、九州まで出かけていったと考えられるそうだ。

また、縄文土器の特長は、自由な曲線やダイナミックさであり、弥生土器の特長は、円型や長方形など、規則性に基づく造形だという。これは、情緒や呪術的な世界観と、合理性に基づく世界観の違いではないかという考察があった。また、弥生後期になると、縄文的な文様が加わってくる。さらに、縄文人弥生人が共生していた地域では、双方から縄文的な宗教儀式を行っていたと思われる遺構が見つかっている。

日本人には縄文的な、つまり自然崇拝であったり、情緒的な思考をよしとするDNA的なものが現代人にも受け継がれているのではないかという話は面白かった。磯田さんはそれについての考察を広げ、日本の地勢的特長をあげ、これほど森林の多い国土に囲まれた国は他にはないために、自然に囲まれて生きてきたことが影響しているのではないかと言っていた。たしかに、宗教的な面でも、神道などは八百万神だし、自然のことを抜きに、人間つまり科学技術だけではやっていけないと、日本人は考えているのではないだろうか。江戸の町も、度重なる大火を防ぐ建築様式を取り入れていこうとするより、焼失してもすぐに再建できる木と紙と土の家を選択した。諦観というのではなく、想定できないことが起こることもあると、想定しておく、合理的な考えが大事なのではないだろうか。

あなたを愛してから

なんとも不思議な話だった。早川ポケットミステリーの一冊なのだから、ミステリーなんだと思って読んでいたけれど、いろんな要素が組み合わさったストーリーだった。読後も、これはミステリーなのか? と思う。謎解き、探偵、殺人事件、秘密、それに父親探し、パニック障害が組み合わさり、さらにまだまだいろんな要素が入り込んでいる。しかも主人公が自分の夫を撃ち殺す場面から、この物語ははじまるのだ。

レイチェルは、母の死後、自分の父親を探しはじめる。まだ幼いときに家を出て行った父親のことは、ジェイムズという名前しか知らない。心理学者でベストセラー作家だった母親は父親のことを一切話さなかったし、何の手がかりも残してはくれなかった。彼女は探偵を雇って、手がかりを探し始める。そして父のことだけでなく、母親の人生もたどることになる。

ジャーナリズムの世界に入ったレイチェルは、ハイチの大地震の取材中に感情が壊れてしまう。テレビの生中継でその姿を多くの視聴者に晒したために、仕事はクビになり、彼女自身も精神障害に陥り、家から出られなくなる。そのあたりから先は、ローラーコースターに乗ったように、話は進み、なんども振り落とされそうになりながら読者は必死でストーリーにしがみついて、453ページの最後の行まで突き進むことになる。

ロマンティック・サスペンスという分野があるそうだが、この作品は女性の一人称でストーリーが進み、恋愛小説とも言えるだろう。自分の中の不安と折り合いをつけながら、いくら愛している男でも、その言葉を額面通りには受け取らない。何かを指示されても、自分がゲームを主導できるようにしか行動しない。たとえ自分の命が危険にさらされるとしても。スーパーマンではない一人の女性が、自分ができることを常に考えながら、不安を抱え、愛情の火が消えてないことも認め、一歩ずつ踏み出す。そして小説の最後も、はっきりとした決着をつけないままで物語は終わっているので、レイチェルはまだ相手になんと言うのか、考えている最中なのかもしれない。

 

あなたを愛してから (ハヤカワ・ミステリ1933)

あなたを愛してから (ハヤカワ・ミステリ1933)

 

 

ある男

夫が不慮の事故で亡くなり、妻はそれを会ったことのない、夫の兄に伝えた。弔問に来た兄は、死んだ男は弟ではないと言う。では、私の夫は誰なのか・・・。なんとも上手い設定で、ページをめくらせる。

真相を知った後、妻は、三年半の幸せな夫婦生活をどう考えていいのかと戸惑う。自分が結婚したはずの姓名の男ではなかったにしろ、その日々の愛情のやりとりはまぎれもない事実だ。この事件の真相究明に、妻の知り合いの弁護士が探偵役で登場する。小説の主人公は彼だ。その彼も事件を追いかけながら自らの人生を考える。途中でさりげなく妻の秘密に気づいたことを臭わせるが(読者はとっくに勘づいていた)、おおごとにしないですませてしまう。白黒つけないことは人生には往々にしてあることだが、この弁護士の性格を考えると、さもありなんということだろうか。愛とは、幸せとは、生きるとは何かを考えさせられる。

平野啓一郎はデビュー作を読んでみたが、三島由紀夫的な美文の作家なのだなあと思ったけれど、自分には関係のない物語だったので、それきり読むこともなかった。今回は読書会のために読んだのだが、上手に組み立てられている物語だ。

戸籍交換は貫井徳郎の小説にも描かれているが、この本は謎解きよりも、ストーリーの先を知りたくなる。この本はとても売れているようだ。なにが人々を惹きつけるのだろう。登場人物に悪人は登場しない。どこにでもいる人のようだ。そして、他人の人生を生きることを願望のように思う人がいるのかもしれない。

ある男

ある男

 

 

映画 バイス

これもアカデミー賞作品の一つで、ずっと観たいと思っていた。面白かったけど、映画を観ながらアメリカのことに詳しければ、もっと面白がれるのだろうと感じた。私は副大統領のことはあまり意識したことがなく、映画の中でも言っていたが、大統領が死んだ時に大統領になる人くらいにしか認識がなかった。ディック・チェイニーアメリカの法律の解釈によって、職域というか権限を変えたのだ。チェイニー以降は副大統領が大統領権限を自在に操ったことはないようだが、法解釈によって大統領の権限などを拡大しようというやり方は、大統領候補に名乗りを上げるような人や、ホワイトハウスのスタッフなどには当然の知識なのだと思う。新しい大統領が、自分のスタッフを総取っ替えして、自分にとって都合の良い人選をするのは、トランプはもちろん、日本の総理も同じなんだろう。政治は民主的に行われるわけでも、合理的に効率的に進められるわけでもなく、大統領とそのスタッフが自分たちの考える世界を築き上げていく行為なのだと思う。大統領になった人の倫理観や価値観にアメリカを通した世界の秩序がゆだねられるということなんだと思う。

この映画にはまた、映画的な遊びの要素がたくさん入っていた。まずは謎の狂言回し。中盤でどういう存在なのか明らかになり、メインストーリーの一部に取り込まれて行く。そしてシェイクスピア風にやってみよう、という狂言回しの言葉にしたがって、シェイクスピア劇が始まり、レストランでメニューを読むように政策のアイデアが読み上げられる。観客を楽しませようとする様々な要素がはいりこむのは、現代的なテクニックなのかもしれない。JFKのようなスタイルの映画は作りにくいのか、つまらないと思っているのか。

それにしても、登場する俳優がみな実在の人物によく似ている。チェイニーもブッシュも、他の登場人物も本当にそっくりだ。その時点ですでにコメディの予感がする。

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翻訳─訳すことのストラテジー

翻訳論にはあまり関心がなかった。欧米語間の翻訳と、欧米語から日本語への翻訳を同義に論じられないだろうなと漠然と思っていたからだ。それでも、大学の外国語学部では、翻訳論は人気だと聞いたことがある。抽象的なところで、くくることができれば、何かを語ることはできるだろうとは分かっていたが。今回、この本を読んで、翻訳という行為については、普遍的に語れることがあるということがよく分かった。

「翻訳とは、意味と呼ばれているものをある言語から別の言語に移すのではない。むしろ、『ある状況において、交換可能な』ことばを見つけるのだ」「翻訳はけっして、ソーステキストのあらゆる要素を厳密に再現するものではない。翻訳にはずれと改変がつきものなのだ。変身(メタモルフォーゼ)であって、複製(コピー)ではない」「訳者が訳出すべき決まったアイデンティティなどどこにもないということだ。翻訳を構成する読解・解釈・評価・換言といった行為はみな、翻訳が表現するアイデンティティを定義する役目を果たす」

「『エジプトの革命の女性のことば』は、Mosireenのようなメディア活動のグループのひとつだ。ビデオにスペイン語字幕がつくとどうしても性差が強調されてしまうのが普通だ。たとえばfriendは、女性形のamigaか男性形のamigoにしなければならない。ゆえに、(彼らは)先入観を与える語末のaとoを中立的なxに置きかえる」

適切な言葉を使うということは翻訳という行為によって自覚的になる。日本人の多くは(おそらく)政治や民族問題やジェンダーを意識することは少ないが、外国の言葉であらわされているものや事象、行為を日本語にして適切な文脈の中に置こうとすると、考えずにはいられなくなる。翻訳は面白いとも、深いとも、怖いとも言える。でも、こうしたことを自覚していることは大切だと思う。

翻訳 訳すことのストラテジー

翻訳 訳すことのストラテジー

 

米原万里の「愛の法則」

米原さんが亡くなられたのは2006年。もうそんなに経つのか。希有の通訳者であり、博識の文章家だった。この本は、米原さんの講演を採録したものだが、著書に描かれたことのエッセンスがつまっている。

国を持たない民族にとっては、言葉と文化が強くなり、アイデンティティを築く中心になるために、時に排他的になる。一方、日本は国土があり、国境が自然によってできているから、国土意識が薄くなり、他の国や他の文化と触れあうことは非日常的になる。だから、平気で日本語を捨てて、英語や他の言語を国語にしようという意見が何度もわき起こる。不見識でしかないというのに。また、アメリカ人の言うグローバリゼーションは自分たちの論理や価値観を他の国に押しつけよとすることであり、日本人の言う国際化は海外の基準を積極的に取り込もうという、正反対のことなのだと教えてくれる。

言語を分類する方法の一つに、孤立語膠着語屈折語という3分する方法があって、孤立語とは語順が重要な言葉で、英語や中国語がそれにあたり、膠着語とは助詞が膠(にかわ)となって重要な役割を果たす、日本語、ハンガリー語トルコ語などであり、屈折語は言葉の役割が語頭や語尾の変化や言葉の変化などの屈折によって決まる、フランス語、ロシア語がこれにあたる。そして言語に対して柔軟な感覚を育てるにはこの3つの言語を学ぶといいという。日本人は、英語以外にロシア語かフランス語を学ぶといいわけだ。

通訳は、言葉にとらわれず、元の言語で表現しようとしている概念をよみとって、それを通訳するんだ、という指摘は翻訳と同じだととても納得した。

米原さんの本は以前何冊か読んでいたので、まだ読んでいない本をよみたくなった。

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)